出生前診断の告知のあり方と自己決定の支援について考える【泣いて笑ってBlog】

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人工死産体験談<ケース12>

水面


私達夫婦は当時主人の仕事の都合で海外に住んでいました。
言葉は日常生活程度はできたし、病院には日本語の通訳さんも常時いたのでさほど不自由は感じませんでした。

2003年10月、待望の第2子の妊娠が発覚しました。上の娘が1歳半の時でした。
市販の妊娠検査薬で陽性が出た時は嬉しくて嬉しくて一人でトイレの中で拍手をしていたくらいでした。
それから1週間ほどしてつわりが始まりました。
上の子の時よりもひどいつわりで吐いてばかりいました。
これも赤ちゃんが育っている証拠、頑張らなくちゃと自分に言い聞かせていました。

つわりが治まらないまま5ヶ月に突入しました。
私がかかっていた病院では妊娠初期、中期、後期の1回ずつエコーをします。
明日はクリスマスイブ。検診が終わったらケーキを買って帰ったり、スーパーでチキンを買って帰ろう。家族3人でのクリスマスはこれで終わり、来年からは4人でクリスマスのお祝いができるんだとワクワクしていました。

2003年12月24日、娘を連れて病院に向かいました。
エコーは産婦人科外来とは別の場所にあり、エコー専門のドクターがしてくれるというシステムになっていました。
部屋に入ってエコーをしてもらい、エコーの先生が「頭、背骨・・・・・」と、説明してくれいましたが、突然先生の手が止まり画面に食い入るように見て、他のエコーの先生を呼んで一緒に画面を見始めました。
そして二人で「・・・が見えない」とか「主治医は誰だ?」という言葉が聞き取れました。
外国語なので私が何か聞き違いをしたのかしら?
でも何か様子がおかしいと感じ背中に冷たいものが走りました。
そして別のエコーの機械で再度エコーをし、主治医がやってきて画面を見て「診察室で話しましょう」と言って姿を消していきました。
全身フリーズした私・・・・。

診察室の横に日本語がかなり堪能な通訳さんが立っていました。
普段何もない時はまぁまぁの会話力の通訳さんがつくか、もしくは私は通訳をつけないこともあったので、これだけ日本語のできる人をつけるという事はかなり覚悟を要する内容の話をされるのだとすぐに察しました。
娘を抱っこする手に力がはいりました。

先生の話では「脳の形がおかしい。染色体異常の可能性もあるので
羊水検査で詳しく調べた方がよい」とのことでした。
私の頭の中は真っ白になり、よく分からないというよりも状況を受け入れられませんでした。
「赤ちゃんは一体何の病気なのですか?」私が質問できたのはそれだけでした。
何を聞かなくちゃならないのかすら頭に浮かびません。
先生は「検査しないとわかりません。今の時点では脳の形がおかしいとしかいえません」と言いました。
結局訳分からないまま詳しく調べてもらわないとどうにもならないのかなぁと思いながら羊水検査をうけました。
検査の時エコーの画面を見て私は「脳のどこがおかしいのですか?」と聞くと、先生は「映るべき脳が映っていない。空っぽの状態です。」と言われました。
何が起こっているのかも何をされているのかも理解できない状況でした。
検査結果は2~3週間後、年末年始を挟むのでもう少し時間がかかるかもとのことでした。


家に帰って娘が無邪気にはしゃいでいる姿を見て初めて涙が出てきました。
そして病院で録画してもらったエコーのビデオを見ました。
ピクピクと元気に動いている姿が映っています。
きっと何かの間違いだ、こんなに元気に動いているのに・・・・。
それからネットでいろいろ調べました。調べれば調べるほど深刻な病名ばかりが出てきてますます不安になるばかりでした。

それから約3週間後、羊水検査の結果がでました。
染色体には異常がないとのことでしたが、再度エコーをしたら絶望的な結果が映し出されました。
大脳が発生していないことは勿論、目の周りの骨がいびつな形をしており、鼻の凸凹が無く、口唇裂があるといわれました。
英語で病名を告げられました。「Holoprosencephaly」という病名でした。
1万人、いや2~3万人に一人と言われている病気でドクター自身も文献では知っているが、実際には見たことがないと言っていました。
家に帰って調べてみたら日本語では「全前脳胞症」という名前でした。
障害の程度によっては生存可能で社会生活もできるということですが、私の赤ちゃんはかなり重度の障害と奇形があり、このまま10ヶ月までもつかどうかも分からないという状態でした。

家に帰って主人に赤ちゃんの事を言ったら「今は脳が映ってなくても後1ヶ月したら脳ができるんだよな?」と言っていました。
冷静に考えるとありえないような事でも親というものは自分の子供には奇跡が起こるかもしれないと思ってしまうものです。主人の言葉に胸が詰まりました。

その日は主人と何時間も話し合いました。
主人はせっかく授かった命だから産もうと言っていましたが、私の出した答えはNOでした。
同じ病気で産まれてきた子を一生懸命前向きに育てている方が立ち上げているHPを見つけました。その方達の話を読んで私のしようとしている事は人としてどうなんだろうかと思いました。
でも私には障害児を産んで育てる勇気がありませんでした。

金曜日の夜、入院して寝る前に、子宮を収縮させる内服薬を飲みました。
薬をつかんだ手が震えました。これを飲んだらもう引き返す事はできません。
目を閉じて薬を口に入れコップの水を一気に飲みました。
次の日の朝、子宮口を広げる為に膣剤を挿入されました。
ところがなかなか子宮口が広がらず、結局月曜日の昼過ぎまでかかりました。
2004年1月26日、22週でお空に返しました。

540gの男の子でした。結局私は子供を見ることも抱く事もしませんでした。
顔にひどい障害がある子を見るのが怖かったのです。
すごく悩んだのですが看護師さんが「無理矢理見なくてもいいですよ。」と言ってくださったのでそのまま見ませんでした。
見なかったことに対して子供に少々罪悪感を感じています。
どんな子でも私のかわいい子と思えなかった自分の心の狭さに、自己嫌悪を感じます。

その後、今日までに2人の元気な子を授かる事ができましたが、お空に返した子のことを忘れたことは一日もありません。
今ある命、お空に返した命、どちらもかけがえの無い尊い命です。



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