出生前診断の告知のあり方と自己決定の支援について考える【泣いて笑ってBlog】

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自助グループを紹介されたときの私の経験から

当記事の原文は旧泣いて笑ってBlogにて、2005.01.31にUPしたものです。
かなり大幅に加筆・修正して、新たにここに残しておきたいと思います。


DSCF6235k.jpg



偶然辿り着いた、とあるサイト。
ある看護教員の方のHP。

そこで私は21週で亡くした娘のことを初めて『話す』機会を得た。

看護師目指して受験勉強も追い込みに入っていた、ちょうど2年前の今頃だった。

「看護師になりたい。」
次男を平成13年11月に出産してから、漠然とそう思うようになっていた。その想いに、自分でもなんだか戸惑っていた。
・・・なぜ?なぜ看護師になりたいのか。
自問自答を続けていく。

「患者さんが本当に助けて欲しいときに ヘルプサインを出しやすい・・・そんな看護師になりたいと思うから。」

あぁ、そうか。
自分がそうできなかったこと、きっと後悔していたんだ。

私は娘を失った後も、ずっと 気丈に振舞っていた。
私という一人の患者が忙しい看護師さんたちの手を煩わすようなことは、してはいけないと思っていた。遠慮していたのだ。

でも本当はやっぱり話したかったのではないか。娘のことを。
受け止めてもらいたかったのではないか。娘への想いを。

そう思いだしたら、どんどんどんどんしまいこんでいた気持ちが溢れ出してきて辛くて苦しくなってきた。
自分の心の中の声に耳を傾ける。
それは痛みを伴うものだったけれど、我慢していた涙を流すことで・・・その思いを自分で認めてやることで何か救われたような気持ちでいた。
でも、・・・どこかでスッキリしなくてモヤモヤと何かが胸の奥で渦巻いていた。


受験はもう目前に迫っている。
受験当時、31歳という私の年齢。
幼い息子達を抱えながら、・・・・なぜ?
絶対に学校側はその点を聞いてくるだろうと思っていた。
何度も自分の中で予行演習する。こう言おう。ああ言おう。
・・・・・・だけど 何か足りない気がしていた。

それが私のネットサーフィンの理由だった。何が足りないんだろう・・・?そう思いながらたどり着いた掲示板。


導かれる・・・という言葉があるけれど、まさにその時、そう感じた。掲示板で目に飛び込んできたのは「誕生死」という本の話題だった。一瞬にしてその言葉に目を奪われた。言葉からして死産や新生児死であることは想像できたが、胸がドキンと鳴った。
そしてその書き込みに思わずレスを書き込んでしまった。

【「誕生死」・・・こういう表現があるんですね。私も死産した当時にそういったケアを受けていれば今のこの苦しみも少しは違っていたでしょうか】
確かこういう内容の書き込みをしたと思う。でも、ほんとに独り言のつもりで・・・・。

それなのに意外な反応が返ってきた。管理人さんをはじめとする常連さん方から「おかよさん、ようこそ。お辛い思いをされたんですね。もしよかったらここでお話してください。」とレスがついていた。正直、驚いた。「え?!」と声に出してしまったほどに。
書いていいの?
こんなに辛くて悲しくて苦しい気持ちを、私は吐き出してもいいの?
とても戸惑ったのを覚えている。

・・・そして私はその優しさに甘えて書き始めた。でも私の体は意外な反応を見せた。
キーボードを叩いてるうちに、吐き気が襲ってきてPCの前に座ることができなくなった。私自身、何が起きたのかわからなかった。そんな自分自身の状態に一番驚いたのは他ならぬ私自身だった。
それでも少しずつ自分の気持ちを吐き出していった。一度投稿すると、どんどん想いが溢れてくる。毎日毎日、その掲示板に行くのが日課となった。皆さんから寄せられるレス。その全てが看護師さんなどの医療関係者ばかり。黙って「聞いて」くださっていた。押し付けがましい励ましも激励もなかった。そして少しずつ私は救われていった。

だけどある日、その同じ掲示板で、私に寄せられたレスに思わずムッとした。
『おかよさん 自助グループに入ることも一つの方法です。』

勿論、その方は、私が楽になるための方法を一生懸命考えてくださったのだろう。ここで吐き出すよりも 同じ体験をした人たちの中に入って、お互いに思いを打ち明け、支えあうのがベストなのではないかと思ってくださったのだろう。
しかし私は・・・自分自身がずっと抱えてきた残念で悔しくて悲しい想いは、医療従事者にこそわかって欲しかったのだと、その時やっと悟った。それは『慰めあう』類のものではなく、こちらが欲求することを、ただ黙って受け止めて欲しかったのだ。
医療従事者にこそ。。。私の気持ちを知って欲しかったのだ。きっとその中には蓄積された怒りのような感情も込められていたのだと思う。やり場のない怒り。勿論、その掲示板に集まる医療従事者の方たちは、私とは面識がなく、私がどんどんぶつけてくる思いにどう対応していいのか困ることもあったのだと思う。そして私はその時、もうここで気持ちを吐き出すのは控えようと思ってしまった。勿論、アドバイスをくれた方はそんなつもりで言ったのではないことぐらい私もわかっている。けれど、私はその時やんわりと拒絶されたのではないかと、そう受け取っってしまったのだ。

そして私はこうお返事した。
『そうですね。確かにそうかもしれません。しかし今の私には同じ経験者の助けが必要なのではありません。いつかきっと、そんな心境になれた時、そういった自助グループのことも考えてみます。』

私は自分で乗り越えたと思っていた。
乗り越えたからこそ、今、ここにいるんだと思っていた。
今更・・・自助グループに入ってどうなるのだろう。かえって辛くなるような気がする。・・・そして傷の舐め合いだけはまっぴらだと思った。

その後、私は看護学校入学前日に三男の妊娠が判明。休学という道は選ばずに、入学そのものを辞退しました。
「あなたが受かった為に落ちた人がいる。それを忘れないで。」
ある人に言われた言葉。
だけど私が辞退したことで、補欠合格者の一人にきっとドタバタと連絡がいったのだろうな・・・とも思う。
なんだかすごく自分がいろんな人に迷惑をかけたような気がしてたまらなくなった。

そして三男を出産後、看護師・助産師になりたいと思い続けていた想いが不完全燃焼を起こして、とても息苦しく感じ始めた。
1度点いた火はそう簡単には消えていなかったようだ。とにかく無事に三男を出産するという大きな目標を無事に成し遂げ、ほっとした後、またそのような思いに取り付かれ始めた。

だけど実際問題、3人の幼い息子たちを抱えて看護学校に通うことなど到底無理だと思った。そこで私は初めて・・・他の方法で自分を許し、励まし、頑張って歩いていく術がほしいと思いだした。それが2004年夏に立ち上げたHPのきっかけだったように思う。

そこで初めてポコズママの会と出会い、スタッフとして参加させていただくことになった。

様々なケースでベビーを失ったママたち。
人工死産以外にも流産・死産・新生児死。そして子宮外妊娠・胞状奇胎。
こんなにも多くの方が、愛しいいのちを失っているという事実。
掲示板やブログ、そしてメール等のツールでしか、天使ママたちとはお話しする術がなかったけれど・・・それでも互いの体験に耳を傾け涙を流し励ましあうことで、私はどんどん娘、樹里への想いを昇華していったように思う。

これがセルフヘルプなのだと思った。

ポコズママの会は近年、各地での交流会も開催している。インターネットの中だけの交流から、オフの世界(実社会)での交流へ・・・。
ネットだけではわからなかったお互いのママやパパたちの顔。
目と目を合わせ、天使たちのことを話し共有する想いと時間。お互いの悲しみや喜びを分かち合う。
私たちは生きた生身の人間であることを・・・このとき、再認識する感覚に見舞われる。
もうここにはいない我が子のことを想い、涙が溢れて止まらないのは、自分たちがこうして生きているからこそだと。生きることを我が子や神様に許されたからこそだということを。

私は、セルフヘルプや自助グループというものに拒否感さえ持っていた。
だけど、たぶんそれは・・・きっと恐れていたからだ。
蓋をしてしまった悲しみと向き合うことが怖くてたまらなかったのだ。

確かに天使ママは多かれ少なかれ、悲しみ以外にも罪悪感や自己否定に悩む人も多い。とにかく自分の中の認めたくない部分、弱さとか醜さとか、そういったものと向き合うことは痛みを伴う。
ベビーを失ってある程度時間が経過した私のような者は、なおさらだ。
傷口をえぐられれるような感覚。そこからドクドクと血が流れ出すようだった。
だけど、それは想いを「浄化」することに役立った。
あらためて・・・自分を許してあげようと思えた。


そして今、思うことは各病院・各団体に、ポコズママの会の活動を知ってもらい多くの天使ママたちの声を届けたいということ。
しかし全てのママたちが、こうした援助を必要としているのかと言われれば・・・・私のような例があるので必ずしもそうとは言い切れない。
しかし、また私のように時間の経過と共に、天使ママたちの気持ちは少しずつ変わってくるものなのかもしれない。
それぐらい我が子を亡くすという経験は、衝撃的で特異なものなのだ。

「同じ体験をした人たちと出会いたい。話がしたい。」

そう天使ママたちが思ったときにこそ、すぐに出会えるような・・・そんな繋がりを作っていけたらと願っている。
勿論それには、産婦人科関係者などの協力が不可欠だ。流産・死産したママたちの『その瞬間』、一番そばにいる彼らにこそタイミングを逃さないで適切な援助をして欲しいと願わずにはいられない。
本当なら、私たちは『我が子』を直接知る関係者にこそ、この痛みを共有して欲しい・寄り添って欲しいと願うものだ。しかし多くの病院でそれが叶わない今、自助グループの存在を押し付けではなく、天使ママたちが必要とする時にさりげなく伝えてもらえるよう、お願いを続けていけたら・・・と思う。


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後悔しないために~これから赤ちゃんとお別れされる方へ~

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私が1998年当時、娘を人工死産した際に病院側からは、赤ちゃんとのお別れについて何も提案がありませんでした。今でこそ、赤ちゃんとの思い出を残してくれる病院も少しずつ増えてきているようですが、まだまだその数は少ないのが現状です。


今、このページをご覧になっている方は、人工死産でお別れする日が近づいていて、いてもたってもいられなくて検索しまくり、やっとここに辿り着かれた方もいらっしゃるかもしれません。
可能性は低いけれど・・・もしそんな方が、このページを今、読んでくださっているのなら、どうしても私はお伝えしたいことがあります。

私が娘を喪って何年も経過し、その間に息子たち3人を授かってもなお、娘への想いが苦しすぎるほど胸の奥にくすぶっていたその一番の大きな理由は、やはり娘とのお別れが納得できたものではなかったからだと思っています。


病院側を困らせてはいけないという遠慮
または
当然してくれるものだと思っていたケア
などが受けられず、気がつけば赤ちゃんは突然自分たちの前からいなくなっていて
「確かに愛しい我が子が存在した」という証拠も思い出も残せなかったということになってしまうことだってあります。

それはあまりにも悲しいことだと私は思います。

どんなに混乱していても
どんなに現実を受け容れるのが困難でも
自分の意思とは反対に物事は進んでいきます。
時間は流れていきます。

赤ちゃんが子宮から出ていってしまったら・・・
その後に必ず待っているのは赤ちゃんとのお別れなのです。

人工死産の場合、そのほとんどは12週以降になります。
12週以降の赤ちゃんは火葬に出すことになります。

葬儀社が手続きを代行するところもあるようですが、私たちの場合は夫が病院側から出された書類を持って市役所に行き、火葬許可をもらってきました。
そして夫一人で娘が火葬されるのを見守っていました。

私は自分も火葬場に行きたいけれど、それは申し出てはいけないものだと思っていました。
21週での人工死産。
またそれまで1ヶ月以上も出血していたこともあり、かなり体力も落ちていました。ベッドの上で絶対安静の日々を過ごしてきたせいで足の筋力も落ち、歩けばひざがガクガクと笑うほどでした。
ですから「行きたい」なんて言ってもどうせ許可されるはずがない。わがままを言ってはいけないと思いとどまったのです。
しかし今思えば・・・我が子なのに何を遠慮していたのだろうと・・・後悔しています。

また、もうひとつ肝心なことは火葬の前の赤ちゃんとの思い出づくりです。

残すことが可能なものとして

・へその緒
・髪の毛
・写真
・手型・足型
・エコー写真
・母子手帳
・ビデオ


などがあります。

重ねて言いますが、まだまだこういった思い出づくりをしてくれる病院は残念なことに少ないです。
ですからパパやママから「こうしたい」と病院側に伝えることも大切です。

日本では亡くなってしまった赤ちゃんのことは「早く忘れた方がいい」「なかったことにしよう」という考えが根強いように思います。ですから思い出を残すことにパパやママでさえ迷ったり悩んだりされるかもしれません。

実際に私たちもそうでした。
私が娘の写真を撮ってほしいと夫にお願いしましたが「写真を撮ってどうなる?かえって辛くなるだけじゃないか。この子のことは俺たちの心の中に残しておくだけでいいじゃないか。」と。
私もそこで強く反論できるほどの気力も体力も残っておらず、それもそうだね・・・とあっさり引き下がったのです。

でも、今だからこそ言えます。
それは間違っていたんだと。

もし思い出を残しておいてあとで必要ないと思えば、その時にあらためて考えればいいことです。

また他にも思い出はつくれます。
それは、赤ちゃんと一緒に過ごす時間そのものなのです。
赤ちゃんを部屋に連れてきてもらって抱っこしたり 添い寝したり
お風呂に入れてあげたり・・・。
それに他にもお世話してあげたり・・・・。

赤ちゃんはもう亡くなっているのにそんなことをしても・・・。
そう思われますか?
だけど私はそういう時間がかけがえのない親子の時間であり、またパパやママが現実を受け容れ、優しく温かな思い出を残すのにもっとも最適な方法だと思います。


私は娘とゆっくりお別れする時間さえありませんでした。
火葬場に送られる直前の約30分ほどしか娘と一緒にいられませんでした。それが今でも悔やまれるのです。

また火葬場では「これぐらいの週数だと骨は残りませんよ」といわれることも多くあります。
私の夫もそう言われたそうです。
だけど夫は見届けるのが役目だと思って待っていたそうです。

出てきた娘は、もうそこにはいませんでした。
ただ細い細い・・・たぶん大腿骨であろう骨が2本、そこにはあったようです。少し揺さぶるとあっという間に崩れた、と。
夫はその骨をやはり持ち帰ってきてはくれませんでした。

病院で待っていた私は火葬に出すということは骨が残る。骨が残るということは当然、その骨は私の元に戻ってくると信じて疑わなかっただけに・・・手ぶらで戻ってきた夫の姿を見て愕然としたのを・・・今でも忘れられません。

たとえ週数が少なく小さい赤ちゃんでも、骨は残ります。
わずかでも・・・きっと残ります。
そしてその骨を持ち帰ることだってできるのです。

ゆくゆくは自分たちで供養したり他にも様々な方法で、我が子をそばに置いておくことだってできます。
たとえばジュエリー(ペンダントやリング)にして身に着けることもできます。


~~~~私の想い~~~~~
私と同じように赤ちゃんとの思い出を残せなかったママやパパもいます。
きっと諦めざるをえなくて・・・でも諦められなくて、いまだに後悔したり淋しくなったり辛くなったり苦しくなったり。そんな方も多いのではないかと思います。

私はもっとあの時、情報があったならと思いました。
もっと何かアドバイスしてくれる人がいれば・・・とも思いました。

このページをご覧になってくださる方全てが、赤ちゃんとの思い出づくりに前向きになって下さるとは思いません。
私としても強制はできません。
ですが、こういう方法もあるんだな。こういうこともできるんだな。
と、選択肢があって自分でそれを選び納得できるのであれば、それが一番いいと思います。

私にとって娘の思い出は
母子手帳と数枚のエコー写真だけ・・・。
私にとって娘は大切な大切な宝物です。
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死は決して悪いものではない

娘を人工死産で喪ってしまったことを、今でも激しく後悔していることを知った元師長さんが私に下さった言葉です。
     
   『死は決して悪いものではありません』

私たちは「あの時、私が選択した赤ちゃんとのお別れは間違っていたのではないか」「たとえどんな結果になろうとも、妊娠継続を医師に伝えればよかったのだろうか」「私がもう少し頑張っていたら・・・」・・・きっと、そう責め続けるママたちばかりです。
「せめて数時間でも数日でも生きてくれることを望んだ方がよかったのか」自分の選択が間違っていたのではないかと、いつもいつもそのことが頭から離れなくなります。・・・だけど今、愛しい我が子はもうここにはいません。いくら泣き叫んでも、謝っても・・・あの時には戻れないのです。

私たちは、今、肉体を持って生きています。肉体を持つ私たちは、いつかきっと必ず死にます。「死」はどの人にも、平等に訪れるものです。どんなに死にたくないと願っても・・・私たちはいつか死ぬのです。愛しい人たちを残して・・・。

「死」は自分自身にとっては未知の世界です。輪廻転生という言葉がありますが、もし、私たちが前世から現世に生まれ変わってきたのだとしても、過去に経験した「死」はすっかり忘れ去っています。そんな私たちにとって死は怖いもの。苦しいもの。辛いもの。・・・なのですよね。
だから空に還してしまった我が子に、そんな辛い思いをさせてしまった。苦しい思いをさせてしまった。悲しい思いをさせてしまった。・・・そう自分を責め続けずにはいられないのです。
母親ならば、どんなことをしても我が子を守ってやらなければいけなかったのに・・・と。自分が辛かったから自分が苦しかったから赤ちゃんを空に還す決心をしたのかもしれないと・・・また責め続けます。

人工死産は中絶ですが、広く一般に意味される中絶とは違うと思っています。私たちは我が子がお腹に宿ったことを知った時、戸惑いもありましたが、その反対にパワーがみなぎってくることを感じましたよね。そして誇らしかったですよね。
エコーに映る我が子の姿が愛しくてたまらなかったですよね。命の神秘や輝きを教えてくれたのも・・・あの日空に還っていった我が子ですよね。それなのに・・・って、また責め続ける感情が戻ってきたりして私たちは何度も何度も深い哀しみに襲われます。

何の役目も持たず生まれてくる魂なんていないと思います。人工死産を選択した私たち親の許にやってきてくれたその意味は必ずあるはずです。そしてそれは私たちに悲しみや激しい後悔、そして自責の念に苦しめさせることでは・・・決してない。
もし喪った赤ちゃん以外に地上にお子さんがいらっしゃる方ならご存知だと思います。幼い子供は全身全霊で母親に「好き」だと伝えてくることを。たとえどんなに叱られても、その小さい腕をいっぱいいっぱい伸ばして抱きついてきます。・・・きっと空に還った我が子も同じです。ママのこと、大好きでやってきたんだよ・・・と言ってるような気がします。私たちはたとえ姿が見えなくても、抱きしめてあげることができなくても、それでも心の部分で・・・もっと深い魂の部分でいつまでも親子ですよね。
だけどこの理不尽な怒りや悲しみや悔しさを無理に忘れることはありませんし、乗り越えようと頑張らなくてもいい。人工死産を選択した私たちは、きっとこれから先も自分たちを責めることを止めたりはできないけれど、それでも自由に我が子を想い、そして感謝し、あの温かくて幸せだった頃のことも思い出して生きていきましょうね。。。

時間が解決してくれるとは思いません。だけど時間もまた平等に私たちの上を流れていくのです。激しい感情の動きも全て時間が包み込んでくれます。ほんの少しずつでいいから・・・時間が優しく流れていくことも覚えていたいと思います。

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赤ちゃんの肺低形成

妊娠22週以前に前期破水を起こした場合の待機療法(妊娠を継続)の報告というのは、現在においてもまだまだ少ないそうです。実際には私や他のママたちが経験したように破水が確認された時点で赤ちゃんが重篤な疾患を持って生まれてくる可能性が極めて高いことを説明され、中絶を選択している場合が多いためです。
この重篤な疾患というのに肺低形成が入ります。妊娠17~24週の時期は肺の発達にとってとても重要な時期とされていて、このときに羊水が少ないと肺低形成が起こりやすくなるそうです。

また肺低形成は破水した時期に影響し、破水が起きてから赤ちゃんが生まれるまでの潜伏期間とは関係がないという報告もあるようです。また破水した時の羊水量も大きく影響するとされています。破水してもまだ羊水の量が十分にあれば、肺低形成の可能性は少なくなるとされています。この羊水量は「羊水ポケット1cm、2cm」などと表現されます。妊娠20週で破水した場合も22週で破水した場合も、この羊水ポケットが2cm未満であれば、残念ながら赤ちゃんの肺低形成はとても高い率になります。

早産と呼ばれる時期(妊娠22週以降~)に前期破水を起こした場合、半数以上が1週間以内に分娩になるとされています。
私の場合は子宮頸部に無数にあったポリープが感染を起こした可能性が高いと言われました。前期破水の主な背景として絨毛膜羊膜炎があることが明らかになってきています。もし過去に前期破水を起こした場合、次の妊娠では細菌性膣炎を起こしてはいないか頻繁に検診を勧められる場合もあると思います。(私がそうでした。)毎回1~2週間に1度の検診・内診が苦痛にならないかといえば否定はできません。しかしそれで前期破水が未然に防げるならば、もう2度と赤ちゃんを喪いたくないならば、次回の妊娠では慎重に対応してくれる医師と共に感染を予防することが最も大切だと思います。私も毎回、炎症反応が見られるとかで座薬タイプの消毒をしてもらっていました。


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自然死産と人工死産(中絶)

厚生労働省の人口動態統計というのをご覧になったことがありますか?
 厚生労働省の人口動態統計のページへ

人工死産(中期中絶)とは
母体保護法という法律があります。この法律の下で行われる人工妊娠中絶は、妊娠22週未満までしか認められていません。妊娠11週までは死産届等は不要です。しかし12週以降になると死産届を出す必要があります。一般的にこの時期に行われる中期中絶のことを人工死産と言います。
                     
平成14年の統計を例に挙げてみると 

妊娠20~23週 
・自然死産 2864 (18、9%)
人工死産 3678 (16、9%)  
 
この週数でも自然死産より人工死産の数の方が多いことがわかります。この中には、赤ちゃんに重い疾患があるとか、母体が危険だと診断された上での人工死産中絶)だけでなく、「望んでいない妊娠」をしてしまった結果の中絶も含まれています。ですからとても複雑ですが、毎年ほぼ変らない人数の赤ちゃんをこうして空にお還しているのだと思うと、とてもやるせなくなりますね。きっとインターネットという手段を持たず、一人で苦しんでいるママたちも多いはず。私たちはこうして出会って掲示板やメールでお互い寄り添ったり支えあったりできますが、それができないママたちはどうされているのでしょうか。心が痛みます。「あれは死産だった」と思い込もうとしながら、きっと「私が殺してしまった」と激しい自責の念に駆られているのではないでしょうか・・・。



当ブログは赤ちゃんの障害や病気・母体の合併症等の理由により、苦渋の選択である人工死産で我が子を空に還した体験を元に立ち上げました。当ブログのTOPページはコチラです。



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著作権侵害になりませんか

はじめまして。
偶然、貴ブログに行き当たりました。

人工死産に関するウエブサイト・ブログなどを運営しているおかよと申します。

早速ですが貴ブログ 2006/3/11(土) 午後 7:53 「私について」という記事におきまして 
http://blogs.yahoo.co.jp/makinomasaki2281/29422194.html
ですが、こちらの内容は私のMixi内にあるコミュ
のTOPページの文章

■人工死産・人工流産とは
赤ちゃんの重い障害・奇形・病気、また妊娠を継続するのは母体にとって危険などと診断され、原則妊娠22週までに赤ちゃんを人工的に出産することです。
私たちは赤ちゃんの命を選択することを迫られます。お腹の中で生きている我が子を諦めてしまった罪の意識。あの時、本当にあの選択でよかったのか。もしかしたら赤ちゃんは助かったのではないか。もっと情報を手に入れることができたら。そんな思いをずっと抱えています。

~中略~

一般に言われる流産・死産とも中絶とも違う人工死産。医学的な理由から、待ち望んできた赤ちゃんを諦めなくてはならなかった母親の気持ち。経験者にしかわからない胸の内をここでお話しませんか。


の部分をそっくりそのままコピペなさっていますね。

コメント欄に残そうかと思ったのですが、私はYahooブログのユーザーではない為それができません。
不本意ですがTBさせていただきます。


あなた様もウエブサイトやブログをお持ちならば、このような行為をなさる前に今一度お考え下さい。

貴ブログ記事の修正・あるいは削除を求めます。

~追記~
貴殿が過去に私と同じ人工死産という形で我が子を亡くされたことについては心を重ねています。
どんなに時が経とうとも 新しい命を授かろうとも
確かに授かった我が子のことを忘れるわけはありません。
ですが・・・やはり私の文章をそっくりそのまま載せるのは、どうかおやめいただきたい。
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母体保護法と胎児条項 『障害』に思う

以前、別Blogにて2004年12月20日に書いた記事なのですが、ここに一部転載した上で加筆させてください。    
    
今朝の新聞・・・『子供の治療を拒否』に自分を重ねて。


新聞受けから新聞を抜き取り、そしてすぐに第一面に飾られた文字が目に飛び込んできました。まだぼ~っとしてる頭が目覚めてしまいました。

病気の子供に必要な治療を親が拒否する『治療拒否』の割合が18パーセントだという記事でした。
また拒否後に死亡した子供の割合は、医師がもともと救命困難だと予測したケースの約2・8倍ということも書かれていました。調査は2~3月、小児科(新生児科含む)がある全国の566病院を対象に実施され、2003年度中に治療拒否にあったケースの有無や内容を尋ねるもので、回答があったのは328病院とされています。そのうちの60病院が、拒否事例があったと答えているそうです。
子供達の主な病気として、染色体異常による内臓奇形・水頭症・心臓病・脳障害・白血病などで、そのうち0歳児が58パーセントとされています。

~中略~

誰だって目の前で苦しむ我が子に、望んで『治療は受けさせない』という親はいないと信じていたいです。命が大切なのはもっともなこと。この治療をすれば、この手術をすれば、この子は必ず助かるのだという保証がないのならば・・・ましてや助かっても障害が残る可能性が高いといわれれば・・・将来を悲観し絶望する親がいても・・その気持ちはわからないとは決して言えません。
私も男の子3人の母親です。もし、息子達の誰かが突然事故や病気に見舞われたら・・・?回復も困難だと言われたら?そこに一筋の希望を見出すことに必死になるでしょう。だけどその裏には、必ず絶望感を抱く私も存在すると思います。でも、きっと・・・諦めることはしないと『今』ならば・・・思います。

人は未経験の出来事に関しては、自分で想像することしかできません。この私の今の思いも単なる想像だといえます。しかし、私はずっとずっと心に抱えたまま、忘れられない我が子がいます。妊娠20週ごろに破水したため、このままお腹にもたせることができたとしても、きっと重い障害が残るだろうと宣告された娘です。人工死産という形でお別れすることを選んでしまったのは私なのです。今でもそのときのことを思い出すと自分の勇気のなさに腹が立ちます。激しい後悔に襲われます。いつまでも引きずるのは良くない・・・とは思いつつ。。。時々こうしたニュースなどを目にすると心がざわついてしまうのです。そんな時は、無理をせず静かに自分のこと・娘のことを考えられるようにしたいと思っています。
きっと私のほかにも、同じような理由で我が子を亡くされたママ達は、このニュースを知ったなら心を痛めていることでしょう。。。

たとえ重い障害があろうとも我が子であることにかわりはありません。

だけどそこに生じる経済的・身体的・精神的負担が重くのしかかってくる現実をどうにかしてもらえるなら・・・・その責任を親だけに押し付けられるのでなければ、もっとこの数字は下がってくるのではないかと思います。
またたとえ親であっても、子供が生きる権利・治療を受ける権利は奪うことができないということも、もっと法整備していくべきだと思います。また一番大切なのは、子ども自身がどうしたいのかということですよね。幼い子供達に意思表示を求めても・・それは無理な話なのでしょう。だけど・・・我が子が今こうしていて幸せなのか・・・それはどの親でも考えることだろうと思います。治療を続けることで更に苦痛を強いられることになるのならば・・・積極的な治療を望まない親もいることでしょう。


~中略~

・・・治療を拒否する親の中には、子供に会いに来なくなった親もいたと今回の調査結果にも書かれています。なんてひどい親だと思う反面、その気持ちを思うと辛くなります。

『今』の私なら・・・もう1度あの時に戻って、娘をどうするかと聞かれたら・・たとえ私の出血が止まらなくても感染値が高くなろうとも・・・このままお腹に入れていてあげたいと思うでしょう。
今回のこの調査結果が虐待なのか 親の勝手なのか・・・色々なケースがあるだろうけど、私がここで考えてもきっと答えは出ないけれど・・・。
だけど障害があっても、さまざまなサポートを受けられる体制が整えられれば・・・それは切に願うことです。

超未熟児で生まれた姪っ子も、週に1~2回、障害のある子や未熟児の子どもたちの会に出席していました。メンバーは同じ悩みを持つ母親同士、子供同士、そして専門家など・・・妹が救われた部分は非常に大きいと思います。
人は他人の苦労話に感動し涙するものですが、いざ自分がそうなったら、どうなってしまうのか・・・・。それはその時にならないとわからないものだと思います。一概にこうすることが正しいとは言えないけれど・・・・。

でも助かるべく命は助かってほしい。また助けてあげてほしい。 

【転載終わり】


*************************************************

ニュースに載っていた記事は、『母体外に出ても生きていける子供たち』の場合です。
0歳児が58パーセントという結果から見て、未熟児・新生児の割合が多いのではないかと思います。

ここで私の頭に浮かんだのは母体保護法胎児条項についてです。


母体保護法とは
人工妊娠中絶を規定している日本の法律です。
1996年に「優生保護法」から改正されました。刑法に堕胎罪があるため、【母体保護法】で規定されている理由がなければ中絶はできないことになっています。
関連した条項は以下の通り。

第二条(定義)
(2)この法律で人工妊娠中絶とは、胎児が、母体外において、生命を保持することのできない時期に、人工的に、胎児及びその附属物を母体外に排出することをいう。

第十四条(医師の認定による人工妊娠中絶)
(1)都道府県の区域を単位として設立された社団法人たる医師会の指定する医師(以下「指定医師」という。)は、次の各号の一に該当する者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる。

一 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの
二 暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの




もし胎児に重い病気や障害があったら・・・?
胎児の病気や障害を心配して出生前診断(羊水検査・超音波検査・絨毛検査・母体血によるトリプルマーカーテスト )を受ける人が増えてきました。賛否両論が叫ばれていますが実際には胎児の【病気】や【障害】を理由にした中絶は行われているのです。こうした中絶は、「身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれ」という母体保護法の条文(第十四条(1)の一)を該当させて実施されています。ただし、通常の中絶と同じで、妊娠の継続が母体の生命を明らかに脅かすような例外的な場合を除き、22週未満にかぎられています。

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出生前診断やその後の中絶に関してきちんとしたガイドラインを作るべきだといった意見を聞いたことはないでしょうか?これは母体保護法に、【胎児条項】を作ろうという論議とは異なっています。しかしこれは、『きちんとしたガイドラインを作ろう』→だから【胎児条項】が必要だという論議にすり替えが行われているようです。

【胎児条項】以下の2つ が論議されています。
■胎児に異常があった場合に中絶出来ることを法律に明記すること
■現在妊娠21週6日までしか中絶は認められていないが、胎児に異常がある場合に限ってもっと遅くまで週数が進んでも中絶が出来るようにすること


母体保護法では中絶可能な時期は妊娠21週6日までです。それが胎児の体外生活が不可能な時点とされています。つまり、これを過ぎて22週に突入した時点で胎児は生きて生まれてくる。→これは新生児と同じ。→だから胎児の命を奪うことはできない。
という考えです。これは日本だけでなく多くの国でも採用されている考えです。
もし【胎児条項】が作られれば、十分に母体外生活が可能な胎児であっても、異常が発見されれば中絶されることになります。現実にイギリス、フランス、ドイツでは、胎児条項の有無に拘らず、障害胎児の人工妊娠中絶妊娠時期はいつでも可能になっているのです。
ヨーロッパのある国ではダウン症胎児のかなりの数が妊娠28週を過ぎて中絶されているそうです。こういった方向を日本でも目指そうというのが【胎児条項】なのです。もし仮に妊娠40週で中絶に至った場合、娩出させるだけでは胎児はそのまま生きているでしょう。その先に待っている行為を考えるとゾッとします。それは殺人でしかないと思います。こうした行為が許されることになれば、それは日本という国をあげての差別でしかありません。殺人行為であり間引きといわれる所以です。母体保護法に胎児条項を入れることは、そういう意味があることを覚えておきたいと思います。

障害や病気といっても様々なものがあります。ダウン症やその他の染色体異常などです。生まれてきてもほとんど自由に動くことも食べることもできない重い障害から、制限はされますが比較的普通に生活できる障害まで、その程度は様々だと思います。

たとえば、今まで申し上げていませんでしたが・・・私もある障害をもっています。
と、いっても外見上は普通の健康な人と変わりはありません。障害といっても軽いほうです。命に別状があるわけではありません。
ただ、この症状は加齢と共にじわじわと進むかもしれないし、無理が重なれば突然重くなってしまう危険もあります。また私の障害は遺伝性です。実父とその兄弟姉妹全員と、祖母にこの障害があります。祖母はもう亡くなってしまいましたが・・・。
勿論、遺伝性ということから娘を授かるまでは『子供は作らない』と決めていたように思います。私もかなりこの障害のおかげで悔しくて悲しい思いをしてきたからです。だけど、それで両親を恨んだのかといわれれば、そうではありません。やはり産んでくれたことに感謝しています。今、こうして生きていることが幸せだと思えます。
私の障害が発症したのは中学生の時でした。そしてその後18歳の時の診断で、もしかしたらあと3年程で普通に生活することはできなくなるかもしれないと言われました。

しかし私はそれから15年経った今も元気です。

元気だけれど、その生活を維持するためにある人工的な物の力を借りています。私が家族や社会の中で普通に生活していくためにはかけがえのないものです。
また私の障害は出生前診断では見つけることはできない類のものです。私がそうだったように、今現在、健康に暮らしている幼い息子たち3人にも、いつかこの症状が出るのかもしれないし、出ないかもしれない。それは今の時点ではわからないのです。

もちろん医学の目覚しい進歩によって、息子たちが将来発症する可能性を調べることはできます。実際、自治体が行っている子供たちの定期健康診断で相談したところ、大学病院で調べることができると言われました。しかし、まだ私にはその決心ができません。子供たちにもし私と同じ症状が表れても、私が今、こうして子供たちの前で元気にしていれば、きっと子供たちも絶望はしないだろうと信じています。また子供たちが大きくなる頃にはもっと素晴らしい方法が開発されるかもしれません。
私は次男を出産後、死産や流産など悲しいお産をされたお母さんたちの支えになれるような助産師になりたいと願って看護学校を受験しました。
その時も悩み迷いました。私のような障害を持ってる人間でも看護学生になることはできるのか。また看護師として助産師として働いていくことはできるのか・・・と。
情報が欲しくて今現在はありませんが、某有名看護系サイトの掲示板には毎日たくさんの看護関係者から投稿があり、そこに思い切って書き込みをしたのです。
『私のような障害があっても看護師・助産師になれますか?』と。次の日、レスがつきました。『命を預かる現場にあなたのような障害があれば、どのようなことになるのかお分かりでしょう。』と。想像はしていましたがショックでした。やはり助産師は諦めようかと思いました。だけど、またレスがつきました。『私は助産師です。そしてあなたと同じ障害を持っています。頑張ってください。』と。

そして受験したい学校3校に願書を取り寄せる前に電話をして、私の状況を説明し、それでも受験させてもらえるのか確認したのです。そして受験、合格となりましたが入学式前日に妊娠が判明し、赤ちゃんも助産師も諦めたくなかった私は悩みましたが・・・今私に課せられた仕事は授かった新しい命を無事に育み、この世に送り出すことだと思って休学はせずに入学そのものを辞退することにしました。

今、またそのとき授かった命である三男も成長して、色々と思うこともあるのですが再チャレンジは見送っています。息子たち3人が幼すぎることと、経済的な理由と・・・そして私のこの障害がやはり一番の壁になっています。だけど諦めることはしたくないので、道は違っても目標を持つことは諦めないつもりでいます。

ちょっと話が横道にずれてしまいましたが・・・(仕切りなおして・・・と)

『障害』がその生を危ぶまれるほどのものなのか または そうではないのか、で当然違ってくるものなのかもしれませんが・・・・

娘が22週を超えて生まれてきたとしたら・・・もっと苦しんでいたのでしょうか?・・・娘も、私も。

私の姪っ子も妊娠23週1日で生まれてきて、誰もがきっと駄目だろうと思っていたのに、今こうして元気に成長する姿を見せられてこの7年間考えてきました。娘が助からない運命で、姪っ子は助かる運命だったのはどうしてなんだろう?・・・と。そしてどうして、私と妹が、娘と姪っ子がこのような経験をしなければならなかったのだろうと。

姪っ子のように23週で生まれてきても元気に育つ子もいれば、26週や28週で生まれてきても障害を持ってしまう赤ちゃんだっているのです。
医療には厳密に割り切ることができない・線引きができないファジーな部分というのがあるのですよね。ほとんど可能性はないと思われるケースでさえ、奇跡にしか思えないことだって起きますし、またその逆だって起こるのが医療の世界。

今現在の法律でも中絶は可能です。しかし、胎児に異常が発見された場合に、『中絶をするのが当たり前』という形で法律でそれを保護する必要はあるのでしょうか。これは社会や国家が出生前診断・選択的中絶を促進することになりかねないとは思いませんか。【胎児条項】は、憲法で保障された人権を侵害する可能性が非常に高いのです。     
(このページに関してはあくまでも私個人の考えです。今後、修正する可能性もあります。それだけ命というものを考えた時、答えというものは決してひとつではないということを思います。)

2005年3月11日


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妊娠20週での破水 22週未満の選択

赤ちゃん(胎児)が子宮の外で生きていくのが可能になる前に、妊娠が中断されたり終了になる場合を流産とよびます。
流産には早期流産(妊娠12週未満)後期流産(妊娠12週以降~22週未満)に分けられます。この22週未満という定義は1993年に日本産婦人科学会が決めたものです。1993年以前では1979年に妊娠24週未満の場合を流産と定義されていました。更に1979年以前では妊娠28週未満でした。
これはNICUと呼ばれる新生児集中治療室による医療技術の進歩などで助かる赤ちゃんが増えてきたため、線引きが前倒しになったのだと思われます。しかし現在でも22週に達していれば確実に助かるのかと言えばそうではなく、最先端の治療が受けられてはじめて生存の可能性が高まるというだけに過ぎません。

私が1998年5月に21週で娘を死産した総合病院にはNICUがありました。もし仮に娘が21週の終わりではなく22週で生まれてきていたら、きっと蘇生・救命するためにNICUで全力の医療処置と看護が受けられていたと思います。しかしそれで確実に助かっていたのかといわれれば・・・それはおそらく無理だったのではないかと思っています。そう思ったからこそ、私は娘を神様の許にお返しする決心をしたのです。
NICUのスタッフにしても、きっと毎日葛藤の中で仕事に励んでおられるのだと思います。結果が良くても悪くても、今、目の前にいる赤ちゃんを助けるために最大限の努力をされているはずです。「救いたい」「助けたい」その気持ちひとつだけだと思います。しかしその中で迷いというものも必ずあるのではないでしょうか。様々な器械につながれて小さな体が苦しそうな状態にあるのを目にする時、「私が行っていることは正しい」と完璧に自信を持って言える医師や看護師のほうが少ないのではないかと思います。ひとつの小さな命と向き合う時、これが正しい・これが正解だといえるものなどないのかもしれません。全ては結果論なのかもしれません。

私のケースと同じように妊娠20週前後の前期破水などで、赤ちゃんの予後がほとんど絶望的だと考えられる場合、22週に入る前にその妊娠を継続するか否かの選択を迫られることになると思います。
前期破水などで羊水の量が十分に無い場合、肺低形成や様々な発育不全が起こるとされています。胎児の肺の中に満たされるはずの肺水が、羊水の流出などにより減少します。そして肺が押しつぶされた状態になり肺の形成がうまくいかなくなるのです。特に羊水の流出・減少などの発症時期が私のように妊娠20週以前では肺低形成となる可能性が高まるそうです。また羊水が十分に子宮内を満たさないままの状態が長く続けば続くほど更に危険な状態になることが心配されるのです。

羊水過少と診断され、まず可能性として考えられることは
【1】赤ちゃん側に異常がある場合 
腎臓や膀胱が無い・ちゃんと機能していないなど(尿産生障害や尿路狭窄)
【2】母体側に異常がある場合
前期破水など

羊水過少であっても、胎内で成長することは可能ではあります。しかしある程度週数が進んで生まれてきたとしても、肺低形成による呼吸不全で長く生きられないか、もし呼吸することが可能だとしても人工呼吸器などに繋がれた状態になる可能性が高いのです。

また妊娠22週で赤ちゃんが生まれ、その赤ちゃんの状態が良かったとしても、生存率は50%を下回るとされています。もし生き延びることができても、その後、なんの障害も無く無事に成長できる可能性は高くはないのです。なぜかと言えば、この時期に早産になる場合、子宮の中の状態が正常ではなかったことを意味しているからです。
このような状況を踏まえて考えてみると、妊娠22週未満で破水した私の場合も同様に、赤ちゃんの命が非常に危ぶまれる状態の妊婦を受け入れる医療機関にとっては、やはり難しい判断を迫られることになるのだと思います。産科とNICUの連携が必要であるし、その両科の信頼関係のもとに、赤ちゃんを助けるための治療をするか、またはしないかの決定が産科側の意見も取り入れられるならば、たとえ22週を超えて生まれてきても、展開が変わってくるのかもしれません。

やはり22週未満では中絶するという選択肢もあることを、医師は伝えなくてはならないのでしょう・・・。私は暗に中絶を勧められたと感じていました。決して押し付けられたわけではないのに。
ただ・・・私が考えても考えても答えが出せなくて悩んでいる時に、当時主治医の下で働いていた若手の産科医に「もし、先生の奥さんだったらどうしますか?もし先生の赤ちゃんだったら・・・?」と、尋ねたとき、悩みながらも言葉を選んでその医師は答えてくれました。「俺だったら…今回は諦めると思います。」と。
今思い返してみても、その言葉が私の決定に最終的に深く影響を与えたと思っています。夫婦で話し合って決めてくださいと言われたことは、勿論私たちが親であるのだから当然ですしそうあるべきだと思っています。しかし、もしあの時、その医師にも「自分にはわからない。」と答えられていたら・・・?私はこの選択をしなかったのでしょうか?
・・・きっとそれは考えても仕方がないことですね。
その医師は精一杯、正直に、誠実に、答えてくれたのだろうと思います。

結論を出したのは私と夫。それは紛れもない事実。その事実が娘を喪ってもうすぐ7年という今でも、私を自責の念に駆りたてます。
もし羊水過少の原因が赤ちゃん側の異常だったとしたら、「健康な体に産んであげられなくてごめんなさい」と、やはり私は自分自身を責めるでしょう。しかし私は母体側の異常で、しかも娘を諦めることを選択したのです。なんてひどい母親でしょうか。もしあのまま、出血が止まらなくても子宮を取られることになっても、娘と共にたとえわずかな時間でも共に生きることを選ぶべきだったのではないかと・・・いつもいつも考えています。
しかしそれは娘を長く苦しめることになったのかもしれません。また結果論でしかありませんが、もしそうなっていたら私は今、現在そばにいる愛しい息子たち3人を授かることはなかったのです。私にとって娘も息子3人も大切な我が子に変わりはありません。結果としてこういうことになってしまった。それはもう受け入れて認めるしかありません。ただ、あの時こうしていれば、ああしていればという後悔はいつまで経っても消えません。

私はこのHPを立ち上げてから、私と同じ週数・近い週数で赤ちゃんを空に返されたママたちと出会うことができました。
ママたちの体験の中にはあまりにも惨く悲しすぎる内容もありました。22週以前で生まれてきた赤ちゃんには救命措置は施されないことはわかっていましたが、私自身、そんな週数で生まれてくる赤ちゃんは分娩の最中にきっと亡くなってしまうのだろうと考えていました。そう思い込もうとしていました。
私の娘も産声は上げませんでした。未だに怖くて聞いていませんが、また今更聞いても担当医と助産師は忘れていると思うのですが・・・赤ちゃんの命の火が消えるのはいつなのでしょう。。。
ある一人のママは21週で分娩後、赤ちゃんが生きていたのを確かに見たと仰っていました。しかし、赤ちゃんは別室に移され自然に息を引き取るまで放置されていたことがわかったのだと・・・。それは流産や死産ではない。生きたまま生まれ、亡くなっていったのだと。それならばせめて、自分の腕の中で逝かせてやりたかったと。また、戸籍に載らないなんて納得できない。我が子は確かに生まれてきた。その存在を認めてほしいと。
私はこのお話を聞いて胸が張り裂けそうでした。しばらくは激しく自分を責め続けました。

あの時、私の娘はどうだったのか?産後すぐに銀のトレイに移されて、娘は私の母と対面したそうです。引き剥がされた胎盤にも母は会ってくれていました。それを考えると、きっと私の娘は産まれた時には亡くなっていたのだろうと思います。だけど、どうしても重く苦しい思いは私の胸の中にいつまでも残っています。きっと・・・これからも、ふとした拍子に思い出しいたたまれなくなると思います。
7年前の出来事を、私は何度も何度も繰り返し経験しています。私自身の心の中で。いつもいつも、はっきりとドラマを見ているように思い出します。だけど繰り返し繰り返し、何度そのドラマを再生しても『正解』は見出せないままです。

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入院中の記録~手帳から~

私が娘を妊娠中、初めて出血したのは妊娠15週4日の時でした。安定期だと一般に言われる5ヶ月(16~19週)に入る直前のことです。仕事から帰ってきていつもより疲労感があり腰もだるく重たいような感じでした。そしてトイレに立った際、下着に茶色の出血を発見し、夜間でしたがいつも受診していた開業医である産婦人科に連絡して診察してもらいました。
薬をもらって帰り自宅安静を1週間。その間、トイレに行く度に出血を確認。
量もどんどん増えていきます。軽い腹痛もずっと続いていました。しかし妊娠中は出血が起こることもあるということを知っていましたので、「まさか私に限って」という思いも手伝ってそこまで深刻にはなっていませんでした。ただ関係ないのかもしれませんが、出血して3日後に37,7℃の発熱。その翌日には38,5℃まで上がりました。心配して訪ねてきてくれた妹に促され再受診したのが16週4日の時。出血してから1週間後でした。
受診すると胎盤の位置が低く、お腹も規則的に張っている為、切迫流産と診断されて即入院となりました。荷物を取りに自宅へ帰ることも許可してもらえませんでした。
早速ウテメリン(子宮収縮抑制剤)の点滴が始まりましたがその日の夜は、ずっとお腹が張っていて寝苦しく何度も目が覚めました。


1998/3/28
入院2日目(16週5日)

ウテメリンの副作用からか動悸と吐き気に何度も襲われ、生理痛のような痛みが今までで一番強く感じられた。食欲もなし。

入院3日目(16週6日)
夜中0時と朝7時 点滴を入れ替え
朝7時過ぎ とても大きな血の塊がズルズルと出る。
夕方4時・5時に嘔吐 夜中に発熱

入院4日目(17週)
朝からまた吐き気 出血も止まらない 夜にまた発熱。

入院5日目(17週1日)
シャワーの許可が下りる。
ただし点滴はつけたまま。お腹の張りもまだある。

入院6日目(17週2日)
吐き気もお腹の張りも相変わらずだ・・・・

入院7日目(17週3日)
朝からお腹の張り 夕方6時過ぎ重い生理痛のような痛み 
抗生剤の点滴30分 今日から5日間この点滴を受ける

入院8日目(17週4日)
朝食の後すぐに吐く ほとんど全部吐いてしまう 
シャワーの許可下りず

入院9日目(17週5日)
朝、やっぱり吐く 果物しか食べたくない

入院10日目(17週6日)
吐き気が少し落ち着いてきた 出血の量も少し減る 
色も薄くなってきた気がする

入院11日目(18週)
出血の量も少し減る 色も薄くなってる

入院12日目(18週1日)
向かいの部屋に切迫早産で入院していた友人が、夜中に無事に赤ちゃんを出産した。会わせてもらった。小さくて可愛かったー。

入院13日目(18週2日)
午睡の後、具合が悪い。夜7時半、おへその右下あたりが20分間痛む

入院14日目(18週3日)
朝起きてトイレへ行くとナプキンいっぱいに出血していた。どうしてだろう。良くなってきたと喜んでいたのに。
診察を受ける。胎盤の位置は大丈夫みたいだけど出血の原因はまだわからない、とのことだった。
お昼前、胃液を吐く。

入院15日目(18週4日)
出血の量は落ち着いている 
お腹の上からエコーをとってもらった 
羊水とは違う液体の影が子宮の下の方に映し出されていた
医師にもこれがなんなのか判断できないようだ

入院16日目(18週5日)
朝、お腹は張らなかったけれど、それとは違う何かを何度も感じた。
これが胎動かな・・・と初めて思った。
ウテメリンの量が少し減った。
シャワーの時、太ももに蕁麻疹を見つける。

入院17日目(18週6日) ウテメリンの量が減ったからか食欲が少し出てきた。
お腹は夜に1回張ったようだった。
蕁麻疹が手のひらにまで出てきた。ほんの少し痒い。

入院18日目(19週)
朝食の後、トイレへ行くと薬指の爪の大きさぐらいの血の塊が出た。
赤ちゃんを出産した友人が退院していった。
赤ちゃんは黄疸のため、あと1日入院だとか。

入院19日目(19週1日)
夜中2時過ぎ頃からお腹がつるような痛みに何度か見舞われた。
朝一番に調べてもらったら微弱な張りが何回か確認されたみたい。
少しだけ点滴の量が減る。
午前中少しだけ出血があった後は、おりものに色がついている程度だった。

入院20日目(19週2日)
(この日は夫に対する愚痴ばかりを書いてました。記録はナシです・・・)

入院21日目(19週3日)
まだ友人の赤ちゃんは黄疸が治まらなくて入院中だって。心配だ。。。

入院22日目(19週4日)
昼過ぎと夕方にお腹の張りを感じる

入院23日目(19週5日)
お腹の張りは昨晩から少し落ち着いているようだった

入院24日目(19週6日)
点滴が漏れる 
本とエコー写真を見ながら胎盤の位置がどうなのか何度も確かめる

入院25日目(20週)
ウテメリンの量が少し減った。しかしトイレの度に、どうしても出血を確認してしまう。
友人が赤ちゃんを連れて授乳室に来ていた。
黄疸がひどいので赤ちゃんだけまた入院するそう。

入院26日目(20週1日)
朝4時半に点滴が外される。エコーではやはり影が映し出される。
午後4時・5時・8時半・10時とお腹が張る。出血も増える。

入院27日目(20週2日)
夜中2時半 出血が多めに出たような気がして気になってトイレへ。
確認してみると多い日用のナプキンを取り替えなきゃいけないぐらいの量だった。だけど色は少し薄い。
【今思えば、この水っぽい出血が破水だったのではないかと考えています。】
朝、起きてしばらくするとまた出血しているのがわかる。外来の診察が始まる前に先生に診てもらう。
「羊水が少ない【羊水過少】かもしれない・・・。出血の原因も不明です。」と言われる。
先生も難しい顔をしている。部屋に戻り涙が止まらない。
「私はあなたに会いたいよ。。。」お腹の赤ちゃんに語りかけながら泣いていた。

入院28日目(20週3日)
市内の総合病院へ転院。
看護師さん一人と実母が付き添ってくれ、タクシーで移動。
久々の外の空気。だけど移動中もずっとお腹が張っていた。不安。。。
産婦人科外来に到着。大勢の患者さんに驚く。
しかし私はすぐに診察室へ通された。
診断の結果、子宮頚部にポリープのようなものがいくつもあってそこから炎症を起こして破水した可能性が高いということ。
このポリープが癌の可能性もあるという。
最悪の場合は子宮を取ることになるかもしれないと説明される。

診断後、すぐに4人部屋に入院。ずっとずっと呪文のように唱えていた。
「大丈夫。大丈夫だからね・・・。」
子宮収縮抑制剤は錠剤で、抗生剤は点滴で開始される。
トイレはポータブル。シャワーは禁止。食事以外は絶対安静。

追記:
妊娠が判明した頃、子宮頸ガンの検査は受けていました。その時の結果は正常。それからわずか2ヶ月後に出血が始まりました。出血が始まった時点でポリープができていたのかどうかはわかりません。初めに入院していた開業医の所では何も言われませんでした。今となってはこのポリープが妊娠前からあったのか、妊娠後にできたのか・・・どちらなのかわかりません。なにしろ医師からはポリープのことは一切聞かされていなかったのです。ポリープが感染を起こし子宮内にまで影響を及ぼしたのが前期破水の原因なら、決してポリープを侮ってはいけないという証なのではないでしょうか。私と同じようにポリープから感染を起こし愛しい赤ちゃんを亡くされた体験を紹介されているhiyokoさんのページはこちら。更に子宮頚管ポリープについてへの意見をこちらのページでも紹介されています。
また、ポリープ=ガンだとは限りません。良性のポリープの割合の方が多いですし。
ただ、私はアメリカロサンゼルスで生活していた時(1992~95年)体調がおかしくて受けた検査で子宮頚部に異常細胞が発見されたことがありました。その時の検査結果はクラスⅢ.医師に進められたのは患部をレーザーで焼く又はフリージングして取る方法があるとのことでした。しかし私は当時、まだうら若き23歳。恥ずかしさと恐怖心の方が勝っていました。それで外科的治療を選択せず、漢方・ヨガ・気功・健康食品など試せるものを試しました。更に別の産婦人科で受けた検査で小さな子宮筋腫・卵巣嚢腫・子宮内膜症もあるのではないかと言われました。
普段から性交痛があること、下腹部に鈍痛があることなどからピルやホルモン療法による治療も受けました。しかし薬が合わなかったのか、更年期障害のような症状が出ました。めまい・動悸・激しい不安など。一気に医療に不信感を抱いた私は産婦人科での治療を一切やめました。
またその時の子宮頸ガン検査でヒトパピローマウイルス(HPV)が発見されました。おそらく1992年ごろの日本では子宮頸ガンの検査をしてもウイルスが発見されたか否か、またその種類などの説明はなされていないと思います。私が検査を受けたアメリカでは検査結果は詳しい冊子と共に検査所から直接送られてきました。ワケがわからない専門用語ばかりで辞書と首っ引きで調べまくったのを覚えています。そのときわかったことはヒトパピローマウイルスは子宮頸ガンの原因になるということです。またこのウイルスは性感染します。性交渉でうつるのです。感染予防のためにはコンドームを使用するしかありません。このウイルスは細かく分けると何十種類にもなり、このうち将来ガンを引き起こす可能性が高いタイプのウイルスとそうではないタイプが存在するのです。私が感染していたウイルスがどちらのタイプであったのかはわかりません。しかしこのウイルスに感染した人全てがガンになるというわけではありませんが、ガンになる可能性が高いタイプのウイルスの方が多いそうです。ですから将来妊娠を希望されている女性は必ず恥ずかしがらずに検査を受けてください。もし万が一、ガン細胞が見つかっても発見が早ければ、子宮を摘出されることはありません。妊娠・出産も可能なのです。


入院29日目(20週4日)
朝から腹痛。午後3時20分ごろ主治医が来て、まだはっきりとした診断はできないと説明される。
私は信じようと思った。少しでも赤ちゃんが楽に過ごせるように蒼い空の下、青い海に、私が赤ちゃんを抱いてプカプカ浮かんでる姿をずっとイメージして過ごした。

入院30日目(20週5日)
朝から切ない夢を見た。夫が他の女性と結婚して赤ちゃんまでいる夢だった。
風がとても強くて霧雨。腹痛もある。今日も頑張ろう。
テレビから流れた言葉が心に響く。
【奇跡が起こすアンビリーバボー。あなたの身に起こるのは明日かもしれない】

入院31日目(20週6日)
目覚めの時、腹痛はなかった。しかし血の塊は相変わらず出る。
久々に洗髪してもらった。ハイリスクな妊婦さんがここには多い。
転院して初めて夫が見舞いに来てくれた。
仕事着のまま。顔を見て手を握ると途端に嗚咽が漏れた。

入院32日目(21週)
夕方6時半 
主治医から説明を受ける。夫、実母、実父も同席。
終わった時は夜8時を過ぎていた。確実な診断はまだできないそうだ。
だけど赤ちゃんの腎臓はエコーで見る限り異常はなさそう。
それは破水の可能性が濃厚なことを意味する。
しかしまだこの週数で破水したとなると赤ちゃんの肺が成熟できないままになる。
例えこのままお腹の中でもたせて大きくなって出産できたとしても、産声を上げられず肺呼吸が出来ずに亡くなってしまう可能性が大きいと・・・。
たとえ呼吸がかろうじて出来ても障害が残るでしょうと説明がある。
出血もずっと続いているし、仮に赤ちゃんが出た後でもこのまま出血が止まらないようなら、子宮全摘もありえること。
22週に入ってしまうと赤ちゃんに重大な障害が残ってしまうことがわかっていても、もう堕胎することはできない。
最終的にどうするのかは私たち夫婦で決めてください。
21週の今ならまだ間に合います。と説明がされる。

入院33日目(21週1日
夜中、ずっと眠れなかった。赤ちゃんはどうなってしまうのだろう。
怖くて不安でたまらなかった。
朝から出血量は少なめ。しかし腹痛(張り)は頻繁。
何がベストな方法なのか。考えても考えてもわからない。考えたくない。

入院34日目(21週2日)
今朝は少し眠れた。腹痛もあまり感じない。
午後5時過ぎ、エコー検査。やはり羊水はほとんどなかった。
赤ちゃんと子宮壁の間、一部分にほんのちょっとだけ映し出されただけだった。
だけど破水の証拠もつかめないままだ。

入院35日目(21週3日)
私に判断することなんかできない。本当に赤ちゃんは助からないのか。
考えても考えても答えは出ない。持参した健康保険証に無料相談ダイヤルの番号が記載されてあったのを思い出し、こっそり部屋を抜け出して公衆電話から電話をかける。
まだ早朝だった。電話口に出た人は女性で保健師か看護師の免許を持った人だった。
医師に告げられた内容と症状を説明する。
やはりここでも「今回は諦めたほうがいい」と言われた。
誰か一人でもいいから「大丈夫」だと言って欲しくてかけた電話だったのに、私はこれで絶望の淵に突き落とされたような気持ちになる。
夕方4時頃、またエコー検査。やはり羊水はほとんど無い状態。このままもたせてもリスクは大きい。覚悟しなければいけないのか。
見舞いに来てくれた人の前で思わず涙かこぼれる。

入院36日目(21週4日)
決心した。赤ちゃんを神様の許にお返ししようと。
夫の同意がいるという。しかし夫から病棟に連絡が入らないということだった。
しばらくして仕事を早退し駆けつけてきてくれた。もう1度医師からの説明。同意書にサイン。
午後から子宮口を広げるための処置が始まった。ラミナリアを挿入される。突き刺されるような激痛。
夜の消灯時刻を過ぎてしばらくして温かいものが下りるのがわかった。
瞬間的に破水だと思ってナースコール。当直医は若い女医さん。
「破水ではないと思います。」と、言われた。

1998/5/2 入院37日目(21週5日)
注:母子手帳にはなぜか21週4日で死産と記入されています。
夜中1時前から規則的にお腹が張るようになる。
波が来るとまるで硬い岩のように子宮が収縮するのがわかる。陣痛促進剤は入れていないのに・・・。分娩室へベッドごと運ばれる。
真っ暗な分娩室で、陣痛に耐えながらずっとずっと祈り続けて夜が明ける。朝から一旦、部屋に戻る。陣痛も遠のいていた。
昼食をとり、陣痛促進剤を座薬で挿入。途端に陣痛が襲ってくる。
あっという間に間隔が狭まり分娩室へ。
そして午後2時14分 28センチ420グラムの女の子を出産する。



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長男出産まで

1999年夏に長男の妊娠がわかってからも、パートの仕事は続けていました。
働くことは好きだったし、大変だったけどやりがいもあったから。。。

けれど「妊娠は病気じゃない」から妊娠したという理由で仕事に支障をきたす事は避けたいと思っていました。
だけど、自分でも気付かないうちに時間に追われる仕事でしたので、やっぱり無理をしていたようです。

妊娠4ヶ月に入ったばかりの頃、突然の高熱に襲われました。
腰もだるいような重苦しい感じでした。

まさか今度も赤ちゃんに何か起きるのではないかとビクビクしながら受診しました。
最初、風邪かと思っていたのが熱以外には他の風邪症状等がないことと、高熱・腰(腎臓のあたり)の痛みから腎盂腎炎と診断され「入院しようか。その方が安心だし。」と、主治医が言いました。

病棟に行くと顔馴染みのスタッフも何人かいて少し安心しました。

しかし。。。。

腎盂腎炎の熱は辛い!!!
40度近くまで上がる熱は大人になってから初めての経験でした。
入院したのは残暑が残る9月でしたが寒気がして震えが止まらないのです。
ガクガクガクガク・・・歯の根が合わなくてちゃんと話せないぐらい。

たまらなくなって看護師さんに座薬を入れてもらいました。
「寒い寒い。」と訴えて、毛布を3枚も重ねてもらいました。

尿の濁りもひどくて驚きました。

でも・・・・

妊娠してからトイレが近くなって何度も何度も職場でトイレには行っていたのに。。。。

でもここ数日は、なんだか1回の尿の量が減り回数も妊娠前と同じぐらいに減っていたのを思い出しました。
「あれ?」と、思ったのは確かですが仕事の忙しさに紛れて忘れてしまっていたのです。
たぶん知らず知らずのうちに尿意を感じても我慢していたのでしょう。
結局、私は娘を死産した時の教訓を忘れていたのかもしれません。
「妊娠したら無理はしない。」ということを。
赤ちゃんは、今、一人では生きていけない状態で必死に私のお腹にしがみついているのに・・・。

結局、その入院を機に仕事を辞めました。

私は自分で解っているんです。
どうしても頑張りすぎてしまうところ。
無理を重ねてしまうところ。
でも、それは私一人だけなら全然OKなんだけど、新しい命が宿っている時は、絶対にしてはいけないこと・・・・なのですよね。

妊娠中、とにかく心安らかに決して無理しないで過ごすこと。
そう肝に銘じました。

退院してから後は比較的順調に過ごすことが出来ました。


胎教とかそんなものに興味があったのは確かでしたが、図書館から借りてきた本の多くはそれに関係するものだったのだけど。

元々面倒くさがりの私。

私が毎日、美味しい物を食べたり感動したり笑っていれば、それでいいんじゃない?
。。。てな感じで過ごしていました。

ただ、無事に生まれるまで安心はできない・・・と、怖かったのも事実です。
今回こそは大丈夫だという思いと、ひょっとしたらまた今回も駄目かもしれない・・・と、いう思いと。

そしてそんな時に通販で子宮内の音が聞ける(赤ちゃんの心音も)道具を見つけました。
そしたらこれでいつでも好きな時に、赤ちゃんの無事を確かめられると思ったし、私自身が安心できるなら買ってしまえ~!とも思いました。
でも、結局買わなかったのです。

そして胎動がわかるようになって暫くしてくると、大体決まった時間にポコポコ蹴ってくれるように感じました。
パパが帰宅する10分ほど前に、なぜか良く動くような気がしました。
「あ、パパが帰ってくるんだね。」そう言いながら、晩御飯を温めなおしたりしていたのです。
暫くすると夫が愛車で帰ってくるから不思議でした。
・・・・・ま、たまには外れる(?)時もあったけど。そこは大目にみてあげよ。(笑)

出産予定日は2000年4月の2週目頃でした。
段々予定日が近づくにつれ、不安と期待とで興奮した精神状態になることもありました。
36週に入って、もういつ生まれてもいいんだと思ったら、覚悟が決まって意外にもにド~ンとしていました。

そしてここに来てムシがいいというかなんというか・・・
お腹の子にお願いを始めた私。
もう男の子だとわかっていたので夫に似てるかな?私に似てるかな?
そんなことを考えながら、お風呂に入る時にお腹に手を当て話しかけていました。

「もうすぐあなたと会える日が来るんだね。もしね、今、体に具合が悪いところがあったら全部治してから出ておいでね。そしてね、パパのお休みの日は今はまだわからないんだけどね、パパもきっと真っ先にあなたに会いたいと思うんだ。だからパパのお休みの日に生まれてきてほしいなぁ。」

そして出産予定日頃のパパのシフト表が決まったら、またまたお願いしました。
「あのね、パパのお休みはね3月20日と4月○日だけど、できれば2800グラムぐらいで生まれてきてくれると助かります。そしたら4月に生まれてくるよりも3月20日の方がいいのかな・・・?でもね、あなたが生まれたい日を選んで生まれてきてね。パパがお休みの日に・・。待ってるからね。」
そう3回ほどお願いしたのです。


そしたら。。。
生まれたんです。
驚くことに3月20日。2790グラムで。

胎児は、ちゃんと母親とコミュニケーション取ってるんだな~と実感しました。

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長男受胎 その不思議なメッセージ

娘を人工死産した時、医師は最悪のケースも説明しました。

「最悪の場合は子宮を摘出しなければいけないかもしれません。」

私は怖くて怖くて、今、お腹にいる赤ちゃんを諦める上に子宮まで取られてしまったら、私は2度とこの腕に赤ちゃんを抱くことは出来ない。。。
今はまだ「次の子」なんて考えられないけど、でもどうか子宮は無事に残してください。

そう願ったのを覚えています。

娘を人工死産して1年後、1度目の命日が来た日、パートで働いていた私は出先で一人、出産した時刻の午後2時14分、目を閉じて娘を想いました。
声を殺して泣きました。

願わくば、もう1度、あの子を抱きたい。
もし目を開けたらどんな顔だっただろう。
笑ったらどんなに可愛かっただろう。

私は、ずっと自分の心の中に娘のことをしまっていました。
話せば、周りの人は困ったような顔をしたからでした。
そして誰もが励ましたのでした。

「そんなに悲しんでばかりいたら、亡くなった子も浮かばれないよ。」
「まだ若いんだもの。すぐ次の子が出来るよ。」

きっと、みんな精一杯考えて私を元気付ける言葉をくれたのだと今は思えます。
でもあの時は、そんな言葉の一つ一つに深く傷つきどんどん孤独になっていったのです。

話せば話すほど娘のことを汚されるようで嫌でした。
だから私は娘のことは話さないようにしてきたのだと思います。
話しても事実を淡々と話すだけで、もう誰も私と娘のことを引き離さないで欲しいと強く願っていました。

夫とも、その後色々とあり、離婚寸前までいきました。
別れる方が簡単だったかもしれません。
けれど、やっぱり私は夫のことを愛していました。
彼もまた、私を深く傷つけることで私への愛情を再認識したようでした。

許すこと

・・・それは決して簡単なことではなかったけれど、誰かを恨み続ける人生なんてなんて悲しいことだろうと思いました。
私たちはお互いに激しい性格で、よくぶつかり合いました。
こんなにも憎いと思った人はいなかったほどです。
そして・・・こんなにも愛してると思う人もいなかったのです。

彼を許そう。
そして私自身も許そう。
もう1度、希望を持って。

私は食事に気をつかい、環境にも気をつかい、赤ちゃんを迎え入れる準備をしようと思いました。
赤ちゃんがやってきてくれた時に居心地がいいように、できるだけ楽しい事をしようと心がけリラックスして過ごしました。
基礎体温表もつけて、体の中の声にも正直になろうと心がけました。

そしてある日、私は夢を見たのです。
後姿が美しい髪の長い女性が、とても可愛い赤ちゃんを抱っこしていました。
その赤ちゃんは、ちょっと離れた所に立っている私を見つめていました。

私は思うのです。
「いいな・・・羨ましい。」
すると頭の中に突然声が響きました。
「近い将来。きっと。必ず。」
そこでハッと目が覚めました。その声の主は誰だか今でもわかりません。
だけど余韻がいつまでも残っているような不思議な感覚。
瞬間、私は何か強い予感のようなものを感じました。
赤ちゃんを授かったのだと。
その時は、まだ生理予定日の1週間前でした。
祈るような気持ちで1週間待ちました。

そして生理予定日。
朝から下腹部に鈍痛があるのです。
もしかして生理が始まるのかと緊張しました。
いても立ってもいられずドラッグストアに走りました。
妊娠判定薬を買って、はやる気持ちを抑えながら家にたどり着きました。

説明書を読むと、「生理予定日から1週間後ぐらいに検査してください。」と、あったのですが。。。
え?そんなに待つの?
待てない!えい!やっちゃえ。
判定窓の色を息を殺して見つめます。
みるみる窓に陽性を示すサインが浮き出てきます。
「やった。やっぱりあの夢は、お告げだったんだ。」
最近の判定薬は精度も高く、生理予定日当日でも判定できるようです。

うれしかったです。
ただ、ただ、嬉しかった。
私の体に新しい命が宿ってくれたのです。
大きな力強いパワーが体の内から湧き上がってくるような不思議な感覚でした。

ありがとう。来てくれて。
ありがとう。会いたかったよ。

これほど待ちわびた瞬間はありませんでした。
とてもとても誇らしかった。
本当に本当に幸せな瞬間でした。

その夜、帰宅した夫に判定スティックを見せました。
「おお~マジ?!やったな~。・・・でもちゃんと病院で見てもらうまでは安心できないな。」
彼は私のように思いっきり喜んではくれませんでした。
確かに私も不安はあったのです。

また悲しい思いをするのは嫌だ・・・・。


だけど、心のどこかで確信に近いものがありました。
「この子はきっと生まれてきてくれる。」

だってあのメッセージは
「近い将来。きっと。必ず。」だったから。

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時の流れがもたらすもの


死産や流産で失ってしまった我が子を想うこと。
だけど時の隔たりが、少しずつその想いに変化を生むということへの戸惑い。



私には現在、3人の幼い息子たちがいます。
1998年に第1子の娘を亡くして、その後に授かった私の宝物です。

赤ちゃんを失ったばかりのママたちを、『今の私』は逆に苦しめることになるのではないかと、いつも気になっていました。
掲示板やメールで沢山のママたちと言葉を交わすことができました。
私のほうが逆に慰められ、涙を流すことの方が多かったように思います。


私は知っています。ママたちも知っています。
たとえ失ってしまった命を取り戻そうとしても、
もうその愛しい命は帰ってきてくれないかもしれないことを。

他の誰でもなく、私やママたちがもう1度お腹に戻ってきてもらいたいのは、あの日、あの空に旅立って行ったあの子なのに。
輪廻転生というものをこの時ほど願ったことはありません。
いつかきっと、またあの子は帰ってきてくれる。
そう信じなければ自分が壊れてしまいそうだから。
そう信じなければ何にすがってこれから先を生きていけばいいのかわからないから・・・。

たとえ月日が流れても、私が娘を亡くした事実は変わりません。
たとえ息子たちと幸せに暮らしていても、ここに娘がいないことがとても理不尽なことに思える時もあります。

だから今でもあの運命の日は、私にとって決して忘れることのできない日なのです。

私は、間違っているのでしょうか。
娘を亡くして時が経ち、新しい命をこの世に生み出し育んでいる私には無理があるのでしょうか・・・。


罰当たりだと思われるかもしれません。
これ以上何を望むのかと思われるかもしれません。
だけど私はやっぱり娘が欲しい・・・と、ずっと心の中で思い続けています。
もう今の世の中、子供4人は到底無理だとわかっています。
そしてもし、万が一、そう・・・万が一、妊娠することがあっても、それはあの日旅立って行った娘ではないかもしれないということも・・・。

ママたちが流すたくさんの涙を、私はこうしてパソコンという媒体を通して感じてきました。

ママたちの悲しみや苦しみを、我がことのように感じてきました。

だけど・・・・


私が何をして差し上げられるのか・・・いつもわからないでいます。



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「私、お産の経験がないんですよ。」

長男を妊娠した時でした。

つわりであまり食事も作りたくなくて、その日の夜、ひとりで外に食べに行きました。
注文したうどんが運ばれてきて割り箸を割ろうとした瞬間「いらっしゃいませ」と店員の声。

なにげなく入り口に目をやりました。

そこに立っていたのは、お世話になった総合病院産婦人科の師(婦)長さんでした。
お互いビックリして「あれ?」と苦笑い。

「一緒にいいですか?」
「はい。勿論です。」

私は近況を話しました。
今、妊娠初期だということを。
「またお世話になると思います。」と頭を下げました。

師(婦)長さんは嬉しそうに「そうですか。よかったですねぇ。」と笑ってくれました。

なにげない世間話をしながら二人でうどんを食べました。

「私ね、お産の経験がないんですよ。」
と、師(婦)長さんが突然言いました。
突然じゃなかったかもしれないけれど、私にとって意外すぎるその言葉に驚いてしまったので・・・「突然」だと感じてしまいました。
とっさになんと答えていいのかわからずに、「そうなんですか?」と、返しました。


師(婦)長さんは続けました。
「うちのスタッフ達は、本当に優秀だと思っています。でもひとつ足りないのは自分自身が妊娠して出産するという経験をしている人が少ないことです。」


私にはわかりませんでした。
なぜ、そんな話を・・・・・?

正直、その時はショックだったかもしれません。

でも今、あらためて思います。
経験って気がついたらあとからついてくるようなもの。

私がどう望んだって男になれないように
妊娠や出産だって自分ひとりの力ではどうすることもできない。

愛する人がいて
様々な困難を乗り越えて・・・・受胎して生まれてくるもの。



きっと師(婦)長さんも悩んでいらしたのかもしれない。

娘を亡くした時に私にかけた言葉は、はたして正しかったのだろうか。

患者の気持ちを理解することは出来ないのではないだろうか。
患者を支えることは出来ないのではないだろうか。
もしかしたら見当違いな看護を提供しているのではないだろうか。

たくさんの葛藤があったのかもしれない・・・・。

毎日たくさんのハイリスク妊婦を抱える産婦人科病棟の師(婦)長。

「患者さんの前では見せない涙も、陰では流してきました。」


・・・・もうそれで十分です。



私は病棟スタッフの皆さんが人間らしい心を持って日々看護をされてるのか・・・正直わからなかった。
娘を亡くしたときは・・・・。

でも、きっとみんなそれぞれに、悲しいお産があったときは陰で泣いてくれていることを知りました。
そして自信喪失したり悲しんだりしてくれてることも・・・。

私はこの言葉に救われた気がしました。


本当に本当に
救われた気がしました。

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いのちを護る

ひとつの生命を護ることって
なかなかできそうで
なかなかできない。

私は娘を失ってしまってから、ずっと自分を責めてきました。
それなのに時間と共にその想いが変化していくのを感じました。

それでいいんだと思える自分と、決して忘れたくないという自分との間で、戸惑いながらも流れに任せていたように思います。

でも本当は、哀しみも時間が経過していくと共に少しずつ形を変えていかないと、今を生きてる私には辛すぎることだったかもしれません。

自分を護るために、苦しいこと悲しいことは考えない。
振り返らない。
過去に縛られず未来を見つめて歩く。

そうすることがベストだと無意識にそう感じていたのかもしれません。

なのにどうしても私は自分の本心と向き合うことをやめたくなかったのです。



当時長男は3歳になったばかり。二男は1歳5ヶ月。
私は看護学生になるはずでした。

看護学校に通うことを決心して受験勉強も毎晩遅くまで続けました。
睡眠時間が1日3時間でも平気でした。

このパワー。。。
一体どこから湧いてきたのでしょう。


私は助産師を目指すことで、亡くしてしまった娘への償いになると信じていました。
助産師を目指すことで許しを得ようと思っていたのかもしれません。
もし助産師になれたら、いつでも娘を傍に感じていることが出来るだろうと思っていました。

無事に看護学校に合格した時も、きっと娘が応援してくれているのだと確信したほどです。

でも入学式前日に判明した三男妊娠。
なぜ?なぜ今なのか?

娘は今、私を試そうとしているのか。

そして悟りました。



私がやるべきことは、たくさんの人のお産に関わることではなく
誰かの為にではなく・・・・



たった一つの私にしか護れないこの小さな命を守り通すことなのだと。


娘が私に望んだことは、もう2度と授かった命を手放すなということなのかもしれません。

護り通す
慈しむ
愛する

母として生きることを許されたのだから、精一杯頑張ろう。

なによりも自分自身の為に。

そう思っています。

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埋めることのできない穴

悲しみはゆっくりゆっくり時間をかけて・・・薄らいでゆくものなのかもしれません。

娘を人工死産という形で亡くしてから暫くは、何を見ても何を聞いても、全てが娘への想いに繋がって辛くて悲しくて自分がどうにかなってしまいそうでした。

怖くて次の妊娠なんて考えられる余裕がありませんでした。
なのに一刻も早く、また妊娠したいという気持ちが強く強くありました。

私はただ信じていました・・・。


娘とお別れするための陣痛をただ独り、真っ暗な分娩室で耐えながら神様に祈り続けていた願い。

『今回はこの子をあなた様の許にお返しします。どうか弱い私をお許しください。願わくば・・・いつか必ず必ず、またこの子を私に授けてください・・・。』

ずっとずっと独り、分娩室の窓からのぞく暗い夜空を思い浮かべながら・・・・ずっとずっと祈っていたから・・・。
きっとその願いは叶えられるだろうと・・・信じていました。

あれから月日が流れ、私は3人の息子たちの母となりました。
息子たちの成長が嬉しく、そして切なくもある普通の母となることができました。

きっと何も事情を知らない人たちは、さぞ私のことをパワフルでいつも忙しそうにしてる元気なママだと思ってくださることでしょう。


でもそれは・・・・

全部娘の樹里が私に与えてくれたものだと思います。
娘を抱くことをいまだに許されないまま・・・・
その意味を考えてしまうこともありますが、息子たち3人は私の全てを差し出しても護りたい大切な宝物です。


だけど・・・
娘がいない淋しさは決して埋めることのできない穴なのだと気づいています。

長男が生まれたときも
次男が生まれたときも
三男が生まれたときも

その寝顔に娘の面影を探し、やっぱり違うんだとわかったときの淋しさはやはり大きなものでした。
神様は・・・そして娘は、2度と私の許へやってきてくれることを許してはくれないのだと思いました。

・・・でも

それは違います・・・ね。そうですよね?

娘を失った悲しみは大きく、たとえ時間が経過して薄らいでいっても
私たちが21週という期間、ともに生きた時間は私の中に・・・私の子宮に心にちゃんと記憶として残っています。

失ったものは大きくても与えてくれたものの方が多いと気づきました。

それは2004年7月中旬にウエブサイト『泣いて笑って』を立ち上げて徐々に確信に変わってきました。

様々な人との出逢い。

それは私に温かさ・優しさ・思いやり・希望・夢を与えてくれました。

掲示板でいつも支えてくれる方々。
メールを送ってくださる方々。

そして私をいつも陰で支えてくださる方々。

本当に皆さん、ありがとう。。。

これからも『泣いて笑って』を通して、沢山の出逢いがありますように
皆さんとともに歩いてゆけますように。


いつまでも悲しみ続けることは、けっして自分を責め続けることでも卑下することでもなく、私たちが愛することをやめたくないからこそ・・・いつまでも憶えていたいからこそ・・・失いたくないからこそなのだということを、やっとやっとわかりかけてきた気がします。。。


2004年11月13日
(同じ天使ママからメールをいただき、その中の言葉に気づかされ
救われた気持ちでした・・・・ありがとう。Yさん。)

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娘を亡くした後の私の生活

私が娘を亡くした後、どのように過ごしていたのでしょう。

母一人が住む実家に約1ヶ月ほどお世話になった後は、夫と猫たちが待つ自宅に戻りました。
勤めていた会社も辞めました。
身体的には続けられそうだった仕事ですが、私の心がそれを拒否しました。

ただ、じっと。。。


ひとりで気が済むまで時間を過ごしたいと願いました。
作り笑いもテキパキした行動も何もかもしたくないと思いました。

まわりは「日常」に戻っていても
私はそれを受け入れたくありませんでした。

元気よく買い物に出かける日もありました。
人に会うこともありました。

そしてその反対に引きこもり続ける日もありました。

いつも思うことですが
人を傷つけるのは人です。
だけど人を癒すのも、また人なんですよね。

でも人と会うのが嫌な時・・・
私はよく海や山に行きました。
自然の営みの中にポツンと自分を置くことが好きでした。

山に行けば、森林から放たれる香りがとても心地よく
鳥たちのさえずりが慰めてくれました。
滝へ行けばその途切れることのない水の流れに
足を入れ手を入れて
その冷たい水で、娘を想う為に購入した数珠を清めました。

海へ行けば
波を眺め、潮の音を聞き、潮風に身を任せ、腰を下ろして
いつまでもじっとしていることができました。

自宅の庭に様々なハーブを植え、花の種を蒔き、水を与え世話をするのが日課になりました。

蝶やトンボが作業をしてる私の帽子の上にとまったこともありました。
空を見上げればすばらしい青空が広がっていました。

そしてそんな時、ふっと思いました。
神様は、今、そこの草陰にも、その蝶にも、そのトンボにも
そしてこの青空にも、この大きな海にも
そして・・・私の心の中にもいらっしゃるんじゃないかと。

私は宗教を持っていません。
普段、神や仏に祈ることもしません。
だけど、目に見えない不思議で大きな力や愛があることは
漠然としてるけど・・・信じています。

信仰は持っていなくても
こうして普段の生活の中から、「神様」を感じ信じることができる気がしています。


きっと娘も空の上から
私を見てくれていると信じて・・・
彼女に恥ずかしくない人生を送ろうと思って・・・・

毎日、気持ちの浮き沈むはありましたけど
それでも少しずつ・・・私は自分自身を慰め、希望を持とうとしてきたのです。

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中絶なのか死産なのか・・・

娘を亡くす前までは信じていたこと。

「頑張れば、それに適う結果が出る。」



けれど、どんなに頑張っても

どんなに願っても
どんなに祈っても

。。。どうにもならないことがあるのだと知りました。
。。。報われないことがあるのだと知りました。


生命の誕生は
それほど奇跡的で神秘的で
私が意図してどうこうできるものではないのだと知りました。




自分の身に降りかかることは、どんなことだって耐えてみせよう。
頑張ってみせよう。
もし、へこたれても 投げ出しても返ってくるのが自分自身になら・・・甘んじて受け入れよう。
そう思ってきたはずでした。


けれど娘を亡くして、予想以上の自責の念。自己否定。

私が なぜ今生きているのかもわからなかったあの頃。

今でも時々考えると辛くなります。

「中絶」だったのか「死産」だったのか


「人工死産」だという言葉を知りました。

「死産」とは・・・
妊娠満12週以後における分娩において、
分娩直後の心拍動,随意筋の運動及び呼吸のいずれもみられない場合。
これは「自然死産」というのだそう。

しかし娘の場合は「人工死産」に相当する。

胎児がまだ母体内生存が確実であるのに
人工的処置を加えたことにより死産に至ったから。

やっぱりこれは中絶なのだろうかと考え出すと
苦しくて悲しくてやりきれませんでした。


娘は苦しまずに安らかに逝けたのだろうか・・・・


それをずっとずっと
主治医にも担当助産師さんにも聞けずにいます・・・

まだ弱虫で
目を背け続ける自分がいる。


もう
自分を責めるのはやめようと

そう決めたはずなのに。
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22週未満の中絶

流産や死産といっても様々なケースがあります。
私の場合は赤ちゃんが生まれた後に亡くなったわけではなく、またお腹の中で亡くなってしまったわけでもありません。
私は細菌感染を起こし、まだわずか20週あたりで前期破水を起こしてしまいました。
だけど、赤ちゃんはそれでもお腹の中で生きていました。
生きているにもかかわらず、私は「中絶」という選択をしました。
そう・・・。自然に流産したわけでも、勿論死産したわけでもないのです。
あの時、中絶という選択をしなくても・・・そのままなんとかお腹の中で育てるという決心が出来ていれば・・・
私もまた亡くなってしまった娘の人生も大きく変わっていたかもしれません。

22週未満の中絶。
妊娠12週以降の中期中絶では分娩誘発による妊娠中絶になります。
私、おかよの場合も21週で人工的に陣痛を起こし分娩となりました。
日本で中絶が可能なのは、母体保護法で「母体外において生命を保続することができない時期」と規定されています。
その時期が「妊娠22週未満」なのです。
染色体の異常を調べる検査は羊水を採取して行われますが、もし異常が見つかった時に胎児を合法的に中絶できるように妊娠16週頃に行われるそうです。
しかしながら、母体保護法には胎児の障害を理由に中絶を認めるような規定は無いのです。
母体の健康を害する場合のみ、中絶は認められているのです。

障害児を出産→その子供にたくさんの治療費が必要→母親は子供の世話や看病に追われる→経済的負担と身体的負担が重くのしかかる→母親の健康が害される
と解釈すれば、障害を持った胎児の中絶は違法ではないといえるかもしれません。

医師にすれば「障害を持って生まれた子供は、そしてその家族は大変だ。不幸だ。」という考えから、障害を持つ胎児を中絶していると思われるのは、やはり心外でしょうね。
日本の法律では障害を理由に中絶することをちゃんと認めているわけではありません。法律の解釈と世論や私たち個人がどのように意味づけするか。。。なのですね。

日本では「中絶は個人の権利である」と欧米のように宣言まではしていませんが、法律では22週未満という時期まで中絶を認めています。

だけど。。。複雑です。
21週6日で生まれた赤ちゃんは、本当に助からないのでしょうか。
そして22週ピッタリに生まれた赤ちゃんは、必ず助かるのでしょうか。
・・・これも線引きが難しいのではないでしょうか。

私も最終的には自分で判断しました。決心しました。
しかし状況説明で医師から聞かされる言葉は絶望的なものばかりでした。医師とは最悪なケースも説明しなければいけないのかもしれません。

そんな赤ちゃんを産んでしまったら・・・私はどうしたらいいのかわからない。
第一、赤ちゃんが苦しい思いをするのかもしれない。
こんなに苦しいなら産まないでほしかったと訴えるかもしれない。

赤ちゃんにどれぐらいシリアスな障害が残るのか、その確率はどのくらいなのか。

そしてもし障害があっても、どのような医療やケアを受けることができるのか。
私たち親の負担はどれぐらいなのか。
障害のある赤ちゃんとその家族をサポートする体制は、どれぐらい整っているのか。
・・・そういった説明がされていれば・・・もしかしたら私の「選択」が変わっていた可能性も否定はできません。

私は、どこかひとごとのような・・・夢を見ているような感じでした。
そして表面上は冷静であっても、本当は心の中はパニックになっていましたし、
「自分で判断する」という気力に欠けていました。
今ならばNICUのドクターに会わせてもらって「セカンドオピニオンを受けたい」と申し出ることもできるでしょうが
1998年、当時の情報源は主治医からだけでほかの医師も看護師さんたちも暗に中絶を勧めているようでした。そのように受け取ってしまいました。
とにかく24時間、ベッドの上で絶対安静。出血も1ヶ月と2週間、ずっと続いていて気分も悪いしお腹も痛い。
・・・私はその苦痛から自由になりたかったのかもしれません。もう逃げたかったのかもしれません。
そして・・・もし障害のある子を産んでしまったら、その後の私たちの生活がとても不安でした。
その不安はとても大きなものでした。

しかし私が入院していたのは産婦人科病棟。
医師やスタッフさえも、この私の不安に明確に答えられる人はいなかったでしょう。障害児を取り巻く社会のサポート体制を詳しく説明できるスタッフは、きっといなかったでしょう。
私も、ネガティブな意見にどんどん傾き、どんどん不安になり、そして強くない私は中絶(人工死産)を選んでしまいました。

姪っ子のように23週1日で生まれた子が、その後元気に育つこともあれば・・・・30週で生まれても障害が残ったり残念にも亡くなってしまうこともあります。
その子、その子の生命力なども大いに関係してくるでしょうから・・・「線引き」という行為は無意味かもしれません。
白黒はっきりつけることができれば、それに越したことは無いのでしょうが・・・生命という尊いものを扱う医療の現場では限りなく黒に近いグレー、限りなく白に近いグレーのラインというよりも・・・幅を持たせることが必要なのでしょうね。

たとえ法律が何か基準を定めたとしても、それを支える体制がしっかりしていないと女性の不安は無くならないし逆効果になることだって考えられます。

国に任せていてはダメなのかもしれません。
私たちのように悲しい想いをした天使ちゃんのママたち、そしてその家族が・・・またそれに関わってきた医療機関のスタッフがサポートする体制をしっかりさせるために、何らかの働きかけを始めるべきなのかもしれません。

中絶や流産・死産は、まだまだタブーという色が濃いですが、個人個人がその胸の内を吐き出していき、それを受け止め、流れを変えようという試みはこれからどんどん活発化していってほしいと心から思います。


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最初に入院していた個人病院からの葉書

近頃は開業医である産婦人科も、他医院と差をつけるために様々なサービスを売り出していますよね。
患者が医院を選ぶ材料になるので歓迎なんですが、私はとても信じられないようなサービス(?)を受けとったことがありました。

それは娘を死産した年の年末・・・
戸籍には載せられてない娘ではありますが、年賀状はこちらからは全部控えていました。
友人・知人も死産したことを知ってる人は、気をつかって年賀状を送ってはきませんでした。
しかしずっと入院していた転院前の産婦人科から年賀状が届いたのです。
しかもご丁寧に手書きで『お子様の健やかな成長をお祈りします』と付け加えられてありました。

瞬間、激しい怒りが体中を支配しました。
その場で破り捨てようかと思いました。
『人は過ちを犯すもの。しかしこの場合は、「うっかりしてました」では到底通らないものではないでしょうか。
本当にショックで悲しくて涙が止まりませんでした。
たくさんの患者を抱えているからこそ起きた間違い。
しかし、なぜ、もっと念を入れて確認しないのでしょうか。




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死産後の母乳ケア

死産後の母乳ケア

『21週でお空に還した娘 樹里』で、死産後に母乳を止める薬を服用していたにも関わらず、退院して暫くしたある日、突然激痛と熱い感覚に襲われて母乳が滲み出てきたことを書きました。
きっと医師は『これぐらいの期間、薬を飲み続ければ母乳は完全に止まるだろう。』と予測して処方された分量だったとは思います。
きっとこれにも個人差はあるのでしょう。母乳育児中の母乳分泌時期と量も、多少なりとも個人差があるように。

私が娘を産んだ病院は大きな総合病院で、県内でも有数のNICUが併設されている病院でした。
産婦人科外来にも、それはたくさんの患者さんが待っていました。
勿論、妊婦さんばかりではありませんでしたが、それでも妊婦検診に来てる方、赤ちゃんを抱っこしたお母さん、
そういった人の集まりの中に私が出向くのは苦痛で苦痛でたまりません。

だからその時は、転院前の個人医院に母乳を止める薬をもらいに行ったのです。
その方がまだ待ち時間も、妊婦さんの数も赤ちゃんの数も少ないと思ったからでした。

私の場合、初めての子が死産でしたのでなにもかも解らないことだらけでした。
死産後の体の変化も、ひとつひとつに驚き、戸惑い、ショックを受けていました。

子宮の回復も本来ならば赤ちゃんに母乳を与えることによって、子宮収縮が促され悪露も早く終わるのですが私の場合は2ヵ月半ほどもダラダラと続いてしまいました。
妊娠中の切迫流産と診断された出血から悪露終了まで、ずっと出血は止まらなかったことになります。
その期間、約4ヶ月。
よく貧血で倒れなかったですよね。

そして死産後の母乳分泌のケアにも、もっと重点を置くべきではないかと思っています。
たしかに飲んでくれる子がいない母乳を持て余し、悲しみが膨らむばかりなのですが
そこですぐに薬を使って止めるという方法以外にも何かあるのでは・・と思うのです。

実際に私が死産後2年で長男を出産した時にも、『今度こそは』と母乳のみで頑張りました。
その病院は出産直後から24時間母子同室で頻回授乳、糖水・ミルクも与えない・・・という方針だったのです。
私はたまたま事前にその病院の小児科医師が共著で名を連ねる母乳育児の本を読んで手元にいつも置いていましたので
なんとか頑張ることが出来たのですが・・・・・。
じつは長男はよく泣く子で、授乳して1,2時間後、また泣く。その繰り返しでした。
まさか母乳が足りないとは思わずに生後1ヶ月検診まで、身も心もクタクタになりながら母乳のみで切り抜けたのです。

ところが1ヶ月検診で大ショック。
長男の体重がほとんど増えていなかったのです。
他に1ヶ月検診を受けに来ていた赤ちゃんたちは、ふっくらして肉付きもよかったのに、
私の長男だけはまだ生まれて間もない頃の、か弱い感じの赤ちゃんでした。

母として、私は、またも、ここで自信を喪失してしまい長男に泣いて詫びたのです。

検診に当たってくれた医師は、超未熟児で生まれた姪っ子の主治医でもあり、私も顔見知りでした。『母乳育児、頑張っておられるようですね。・・・でも、少し出が良くないのかもしれませんからおっぱいマッサージを受けてみられてはどうですか。』と、提案してくれました。

妹も毎日、未熟児の姪っ子の為に搾乳した冷凍・冷蔵母乳を届けていた時期がありおっぱいマッサージに通っていました。

藁にもすがる思いで桶谷式のおっぱいマッサージに初めて行ってみました。
そこの助産師さんは、私のおっぱいの状態を確かめるなり
『ごめんね。このマッサージ、ほんとうは痛くないんだけどね、あなたの場合、胸の根っこの部分がガチガチでとっても硬いの。これをほぐしてやらないと母乳は湧き出てこないから・・・・。だからちょっと痛いけど我慢してくれる?』
そういってマッサージが始まりました。確かに痛かった。
『いてててて。』涙が出ました。
でも、この涙は・・・・ただ痛いからこぼれた涙ではなく、娘と長男に申し訳なくて情けなくて、そして今まで張りつめていた気持ちが緩んだような・・・・そういう様々な複雑な理由からこぼれたものでした。

助産師さんは、一生懸命マッサージを続けてくれました。
しばらくすると母乳がピューッと、溢れてくるようになりとても感動的でした。
私はやっと一言、聞きました。
『私でも母乳で育てていけるでしょうか?』
そして助産師さんは『大丈夫。できますよ。』と、ニッコリ笑ってくれました。
そこでまた涙が止まらなくなってしまったのです。

マッサージ後、長男に乳首をくわえさせました。
『コクン。コクン。』音を立てて飲んでくれました。直後、スケールに乗せると80グラムほど体重が増えていました。
やった、この分だけ母乳が出たんだ!・・・・とても嬉しかったのを覚えています。

その桶谷式母乳マッサージの助産師さんが言うには
前回の死産時に薬で母乳の分泌を止めたから、おっぱいがこんなに硬くなってしっまたということでした。

それならば、ある程度週数が進んで死産したお母さん方には、たとえその時は説明し辛いにしても確かにまだ先の赤ちゃんのことなんて考えられる状態ではないけれど、それでもこれからの治療などの説明について、母乳のケアのことにも言及する必要があるのではないかと思います。

桶谷式のマッサージを取り入れて、徐々に母乳を止めていく方法を患者に伝えるだけでもいいのです。


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今、思うこと

今、思うこと。。。。


娘はただ苦しい思いをするためだけに、ただ悲しい思いをするためだけに産まれてきたのではないのだろう。・・・と、いうことです。

私のお腹の中にはたった21週しかいてくれなかったけれど、その21週を「生きる」為に存在してくれたのだと思います。

私が、「こんなに辛い思いばかりするのなら赤ちゃんなんかいらない・・・」そう思ったことさえ、娘は全て承知の上だったのかもしれません。

命は男性と女性が愛し合っていれば自然に授かるものかもしれませんが、なぜ受精して様々な奇跡的な経緯をたどり、「人」になるのか思いを馳せる時やはりそこには偉大な力・不思議な力が働いているように思えてならないのです。


私と夫はアメリカでも一緒に生活し、帰国してからも家を借りて連れて帰ってきた猫2匹と共に二人で暮らしていました。
妊娠がわかったのは1998年1月でしたが、入籍したのは3月3日でした。
そして出血したのが3月20日でした。


戸籍上には何も残らない娘。
あれから月日が流れ、3人の男の子に恵まれました。
女の子が欲しくてたまらなかったけれど、なぜか3人とも男の子でした。

不思議なことに・・・
長男の誕生日は2年後の3月20日です。娘を妊娠中に出血して病院に駆け込んだ日なのです。
もしかしたらこの日は、娘が、もう私の子宮から出て行こうと出血することで私に知らせたのかもしれない日。
これは偶然にしてはあまりにも不思議でした。

そして二男は、長男が1歳の誕生日の日に授かった子でした。(そう3月20日!) 

そして三男は、基礎体温表をつけていなかったのでハッキリしたことは言えませんが、どうも3月20日頃に授かったようです。事実、二男とは誕生日が1日違いなのです。。。

1年は365日あります。
それなのに、こんなことってあるのですよね。偶然の連続。。。。
偶然ではなく必然なのかもしれません。不思議だと思わずにはいられないのです。

娘でしたから生まれ変わってもう1度私の許へ来てくれるなら、当然女の子だと思っていました。
でも、もしかしたら・・・女の子だと「生まれ変わりなんだ」という気持ちが強くて大変だったかもしれません。
だから男の子になって生まれてきたのかもしれません。
ううん。
もしかしたら生まれ変わってはこなくて、お空で楽しく過ごしているのかもしれなません。
考えたらわからなくなってくるのですが、それでいいのかもしれません。

まだ不思議はあって・・・
私には妹がいます。2つ下の妹。
人工死産して実家に帰ってきたその日、皮肉にも妹の妊娠が判明しました。
妹に付き合ってる男性がいるのは知っていましたが、結婚は反対だと言っていた矢先のことでした。
「なんでよりによって今日、そんなこと言うの!!」妹を罵倒しました。でも妹は人工死産して苦しみ悲しんでる私の姿を見て、中絶することはできなかったのです。

そして妹の出産予定日は1999年1月だったのに1998年9月7日に23週1日で女の子を出産しました。
1998年9月7日、奇しくもこの日は私の娘の出産予定日でした。
生まれてすぐ保育器に入れられNICUに運ばれる姪っ子を初めて見たのは私でした。
姪っ子は451グラムで生まれてきました。
娘は420グラムだったので一見して大きさはほとんど変わらないように感じました。
娘の姿と重なって、辛くて悲しくて恋しくてたまりませんでした。
それも同じ病院・同じ分娩室で。

そして9月7日に姪っ子が生まれるだろうということを、私はなぜか知っていたのです。
数日前、娘を思いながら夜空の月を見上げ、ふっと感じたのです。予感とも言えばいいのでしょうか。。。
「妹のお腹の子は9月7日に生まれるよ。」・・・私は母にだけ、そう伝えていたのでした。

誰もが姪っ子は助からないだろうと思っていました。
私も無理だろうと思っていました。

でも、とっても複雑でした。
私の娘は21週で「できる限りの努力」もなにもされないで、葬り去ってしまったのです。
でも姪っ子は、あの時の娘と条件はさほど変わらないはずなのにNICUのスタッフが懸命にケアをしていました。

妹にだけは私のように辛い思いはして欲しくない。
どうか姪っ子を助けて欲しい。
・・・・そう思う自分と、
なぜ妹と姪っ子だけがまわりから応援されるのか。助けられるのか。
私はたった4ヶ月前に、同じような条件の娘を亡くしたばかりなのに、なぜ皆は私の前で妹を励ますことが出来るのか。
矛盾した正反対の思いがかわるがわる襲ってきて、私は自分自身が解らなくなって恐ろしくなりました。

しかし矛盾してはいますが、 ただ、唯一救いだったのは・・・

娘を人工死産して4ヵ月後に生まれた超未熟児の姪っ子が、半年後の1999年3月に無事に退院して日に日に可愛らしくなることでした。
同じ姉妹でありながら、私は娘を亡くし、妹は無理だと思われた娘を抱っこしている。
その運命を呪った日々もあったけれど、やはり妹と姪っ子への愛しさは何よりも強いものでした。
娘の出産予定日に生まれた姪っ子。
生まれ変わりかもしれない・・・・そう思いながら時々会うその可愛らしい顔や手・仕草は私を慰め幸せにしてくれました。


そして今、姪っ子は大きな障害もなく元気に成長しています。
確かに医療が進み22週頃に生まれた赤ちゃんも助かる率が高くはなっています。けれど22週に近いほど、重大な障害が残ることも多いし、亡くなってしまう率もグンと高くなるのです。
普通40週で生まれる赤ちゃんは3000グラムほどあります。
姪っ子はその6分の1にも満たない450グラムほどで生まれたのです。

それなのに今は小学生。
日本舞踊も習っておしゃまさん。
ほんのちょっと痩せてはいるけど本当に元気。

私の娘に関わる忘れられない日付が、姪っ子、3人の息子たち全員に関係していることはやはり偶然ではないのかもしれません。きっと4人とも、なにか娘と繋がりがあるのだと私は信じていたいのです。

話は戻ってしまいますが姪っ子の名前を考えていた妹夫婦が、名前は「ジュリ」にしようと思うと、言ってきたとき、私はとても驚きました。なぜなら・・・・私は亡くなってしまった娘に「ジュリ」と名前をつけていたからです。ですがそのことを妹たちに伝えていませんでした。
驚きつつ妹に告げると「不思議だねぇ。でも、『ジュリ』はやめとくね。お姉ちゃんの赤ちゃんの名前だもんね。』
そう言って、姪っ子には違う名前がつけられたのです。

そして夫とのことも・・・
夫婦でありながら「娘」に対する思いも違って、私は本当に孤独でした。男と女ではこんなにも亡くしてしまった子供に対する想いが違ってしまうものなのでしょうか。
父親と母親の違いなのでしょうか?


私は夫や子供たちを通して、本当にたくさんのことを勉強させてもらってるのだとしみじみ感じることがあります。

私は今、幸せなんだと思います。
そしてこの世にこれほど愛しいものが存在するのだということも夫や子供たちに教えてもらっているのだとよく思います。

生き地獄のような苦しみの中にいて、まわりの人を恨んで自分を責めて気が狂ってしまえたらどんなにいいかと思い続けた日々。
時が経過しても娘への想いは決して変わらないけれど、それでも涙する日々は減ってきました。毎日、家事・育児・仕事に追われて娘のことを思い出すことも少なくなってきました。

でも、それはそれで自然の流れなのかもしれないですね。
私は今、生きているのです。どんなに辛いことがあっても生きていくんですよね。
私には今、6歳・4歳・2歳の息子たちがいます。
この子達と2度と戻ってこない今日を精一杯生きていく。
そしてこの子達を授かり、こうして育てていけるのも夫が毎日頑張ってくれているからこそなのです。夫と出会えたことも、今までの数々の試練も全て私の中の肥やしになっているのだと思います。

感謝とは、こういったごく平凡な日常から小さな幸せを見つけることかもしれません。娘は次元の違うところから、きっと私たちを見ていてくれるのだと思っています。

私がこんな悲しくて苦しい思いをしたのも、そこから何かを学ぶ為、経験する為だったのだとそう信じたいと思います。

自分を責め続けるのは・・・決して良くない・・・と今は思えます。
たった一度の人生。
辛く悲しいこともあるけれど、きっと人は幸せになるためにこの世に生を受けるのだと信じています。





そして「何も残さない」お別れをするのではなくたとえ亡くなっても、たった一晩でもいいから赤ちゃんと添い寝したり抱っこしたり臍の緒や手形・足型・写真を残してあげられるよう、これからの病院には配慮してほしいと思います。

勿論、混乱して悲しみの真っ只中にいる疲れ切った母親にはそんな提案さえしにくいかもしれません。しかし、当の母親も家族もその時は戸惑って断るかもしれませんが、あとあと母親が亡くなった赤ちゃんの死を受け入れ、愛し続けていくためにそれが心の支えになっていくのだとぜひ伝えて欲しいのです。

亡くなってしまった赤ちゃんは、「なかったこと」では決してありません。
母親はいつまでも忘れたくないと思っています。
例えこの先、他の子どもに恵まれても亡くなってしまった子のことはいつまでも心の中で抱き続けます。

中絶や流産・死産で、苦しみ続ける人たちに少しでも私の体験が何かお役に立てたら・・・こんなに嬉しいことはないと思っています。


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妊娠21週でお空に還してしまった娘 樹里~2~

何もかも終わったのに眠れなくて、消灯時間が過ぎてからも、ただ・・・眠ったらあっという間に時間が過ぎてしまいそうで窓辺に腰掛けてずっと窓の外を眺めていました。

赤ちゃんは・・今どこにいるんだろう・・・。

私は、なぜ、ここにいるんだろう。
私は、今、なにをしているんだろう。

巡回に来た看護師さんが
「眠れませんか?・・・椅子、持って来ましょうか。」
そう言って折りたたみの椅子を窓辺に置いてくれた。

さっきまで膨らんでいたお腹がぺちゃんこになっている。
あんなにお腹が張って痛くて苦しかったのに、まるで嘘のよう。
・・・・もう、あの子はいないんだ。


1998年5月3日


お昼前、夫がやってきました。
赤ちゃんを火葬してもらうために、手続きを終えて病室にやってきました。
女の子用のベビー服を買ってきてくれるよう頼んでいたのに、幼児用のピンクの帽子や服を買ってきていました。
ただでさえ普通の赤ちゃんより、ずっと小さいのに・・・これじゃブカブカじゃん。思わずイラついたけれどその言葉をぐっと飲み込んだ。きっと夫には赤ちゃんの大きさなんて想像すらできなかったのでしょう。

でも、やっぱりこの服は大きすぎる。
小さい赤ちゃんだから普通のベビー服でも大きすぎるだろう。
だけど、私が自分で選んだ可愛いベビー服、着せてあげたかった。
・・・でも、きっと、彼も初めて買った我が子の服。
色々悩みながら買ってくれたんだろうな・・・。



夫が病室に着いてほどなくして、私は赤ちゃんに会いに行く?と、聞きました。
彼はムッとしてこたえました。「ちょっと待て。今、来たばかりやろう。」。
私は一刻も早く赤ちゃんに会いたかったのです。
だって時間がないのだから。
しかし彼には急かされたように感じたのかもしれない。
まだ一息つくまもなく、心の準備をしていないのに・・・そう言いたかったのかもしれない。

だけど私は少しずつこの時も・・・夫との気持ちのずれを感じていました。

私たちはナースセンターに向かいました。
「赤ちゃんに会わせてもらっていいですか。」
分娩室横の小さな物置のような部屋に通されました。
赤ちゃんは小さな空箱に入れられて、冷蔵庫の中にいました。
看護師さんが箱を開けて顔を見えるようにしてくれました。

途端に、今までせき止めていた感情があふれ出します。
なんてなんて綺麗な赤ちゃん。
頭にもうっすらと毛が生えて、細くて小さい指には爪も生えています。
硬く閉じたその目が開かれることはないとわかっていても、もしかしたら生きているのではないかとさえ思うほど。

「抱かせてください・・・」
420グラムだと聞いていました。
でも、その重みはずっしりと両腕にきました。
・・・体は恐ろしいほど冷たかった。
やはり・・・もう生き返ることはないのです。

抑えていた感情。もう抑えられない。
声を出して泣いた。
「ゴメンね。ゴメンね。」

看護師さんが大きなピンクのお洋服を、私たちの赤ちゃんに着せてくれました。やっぱりぶかぶかでした。ごめんね・・・。

部屋に戻り、赤ちゃんが眠ってる箱の中に花を少しずつ入れていきます。
・・・涙で顔が見えない。
なにもかも、もう、なにがなんだかわからない。
なんでこんなことになってしまったのだろう。
なんでこんなことをしてしまったんだろう。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。

刻一刻と火葬場に入れた予約時刻が迫っていました。

「写真、撮ってくれない?」
私は夫にそうお願いしました。
「撮ってどうする?辛くなるだけじゃないか。」
そこで言い返す気力は私にはありまあせんでした。
でも、このことは今でも後悔しています。
写真を残しておけばよかったと何年も経った今でも後悔しています。

ゆっくりお別れを言う暇もなく、夫が赤ちゃんと病室を出て行きます。

一緒に行きたい。
でもそれは無理なことなんだろう。
今、ここでそう言ったらみんな困るんだろう。。。
だから我慢しました。
でも駐車場まで見送りました。
夫の後姿と、彼が抱えた小さい箱の入った紙袋を・・・。

気が狂いそうでした。
誰でもいいから、傍にいて欲しかった。
外来の方に公衆電話があります。
先月、女の子を出産したばかりの親友にかけました。
「もしもし」彼女の声が受話器から聞こえてきた途端、泣けて泣けて止まりませんでした。
きっと通りかかった人は驚いたでしょう。
でも、そんなことどうでもよかったのです。
親友も電話の向こうで泣いていました。
同じ女の子。「同級生になるね」と、喜んでいたのに。

なぜ、こんなに悲しいことが起きてしまったのだろう。
私はなぜ、娘を護ってやれなかったのだろう。
なぜ殺してしまったのか。

謝っても謝っても許してもらえない。
後悔しても後悔しても2度とは戻らない。
私は壊れてしまいそうでした。


退院してその後・・・

病院からもらってきた薬が無くなって2日ほどしたとき、実家で過ごす私の胸が違和感に襲われました。
突然、「ツーン」として、胸全体が1枚の熱い鉄板になったような感触。
痛い。なんだかわからない。なんなの?
すると、Tシャツに練乳のようなかたまりがついていました。
「・・・母乳?!」
ショックでした。
どんどん胸の痛みは増していきます。激痛でした。
痛くてたまらなくて洗面所に走り、訳わからないまま搾りました。
どろっとした黄色い母乳。
おっぱいを止める薬を飲んでいたのですが、薬が切れてしまったために出てきたのでしょう。

でも、なぜ?
飲んでくれる子がいないのに、なぜおっぱいは出てくるの?
体はちゃんと知っているんだ。赤ちゃんがいたこと。産まれたこと。
その赤ちゃんの為におっぱいは湧き出てくるものなのだ。

このときも泣きました。
泣きながら搾りました。辛くて辛くて・・・悲しくて悲しくてたまりませんでした。

このまま搾乳を続けるのはあまりにも辛すぎました。
妊婦さんや赤ちゃんを見るのは辛いけど、産婦人科に行かなくちゃ・・・・。
この時ほど病院側はどうして待合室を分けるなどの配慮をしないのか恨めしかった時はありませんでした。
薬を飲んで暫くすると、痛みもおっぱいも嘘のようにひいていきました。

寝ても覚めても考えるのは、失ってしまった小さい命のことだけ。
自分を責め、そしてなぜ助からなかったのか、助けてあげられなかったのか・・・そればかりを考える日々。
退院前、主治医からの説明で細菌感染による前期破水だったと聞かされました。
しかし、細菌自体は転院してきてすぐに投与した抗生剤で死んだだろうと言われました。
その主治医の言葉の意味をずっとずっと考えていました。
先に入院していた個人病院でも抗生剤は投与されました。
しかし3日間投与の後、破水したのです。確かにいつ破水してしまったのかは、はっきりとはわからないのでしょう。
だけど、明らかにいつもよりも水っぽい大量の出血だった。
あの時に破水したのだと私は思っています。

では、なぜ?

先に投与された抗生剤が効かなかったのでしょうか?
そんな馬鹿げたことってあるのでしょうか。
総合病院での抗生剤で細菌は死んだ?
じゃ、もっと早くにその抗生剤を投与されてれば破水しなくて済んだのではないのか。
個人病院の医師の判断ミスじゃないのか。
おかしい。納得いかない。
心臓が早打つ。暫く考えたけれど、やはり納得いかない。
私は受話器を取りました。そして個人病院に電話をかけました。

取り次がれて受話器に出てきた医師の声は事務的でした。
返事は「その抗生剤が効かなかったということでしょうね。」でした。

確かに結果から見たらそういえるだろう。
でも、そこで私はなにを期待したのでしょう。
医師に謝って欲しかったのか。泣いて欲しかったのか。
受話器を置いたあとも私の胸のざわめきは消えず、お世話になってる人に電話をかけて泣いてしまいました。
「たとえ医療ミスだとしても、訴えるのは反対だ。莫大な時間とお金がかかる。お前がそれでは潰れてしまう。悪いことは言わない。早く忘れろ。それがお前の為だ。」その人は、そう言いました。
何件か弁護士にも電話してみました。
どこも同じようなことしか言いませんでした。

夫も実母も反対しました。
母はどんな思いでそんな私を見ていたのでしょうか。

このまま胸にそっと仕舞い込んでしまったほうがいいのかもしれない・・・・・。
私は自分の責任を医師に擦りつけようとしているのかもしれない。


実家で1ヶ月ほど過ごしたあと、会社に行き、退職の意を伝えました。
私を可愛がってくれた所長は辛そうな顔をしていました。
もうこんな自分では外回りの仕事なんて出来ない。
笑顔なんて出てこない。
みんなから同情の目を向けられるのも嫌だ。

そして・・みんながどう声をかけていいか迷ってるようなそんな重たい空気の中で頭を下げて会社を後にしました。

周りの友人たちが、出産したという話を聞き、
「もう自分は大丈夫。おめでとうを言える。」と、思って駆けつけたことも何度かありました。
しかし、やはり・・・・赤ちゃんと、その赤ちゃんを抱っこする友人たちを見ると、羨ましくて妬ましくて悲しくて・・・・。
家に帰っては泣いていました。

テレビで流れるオムツのCM。
道を歩く妊婦さん。
赤ちゃんを抱っこしてる母親。

とにかく、そんなものを見ると平常心ではいられませんでした。

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妊娠21週でお空に還してしまった娘 樹里~1~

1998年1月

生理予定日にいつもの鈍痛と出血があったものの量はさほど多くなく・・・・あれ?と思い始めました。

日数も短くて・・・そしてその約1週間後、ムカムカするので
「もしかしてつわりかも・・・。」とドキドキしながら産婦人科を受診。

エコーには小さい胎嚢がうつっていました。
その瞬間くすぐったいような感激と共に、それを打ち消すかのような戸惑いの方が大きかったような気がします。



1998年3月 

妊娠がわかってからも毎日外回りの仕事をしていました。
そしてほとんど立ちっぱなし。重いものを持つことだってあります。
・・・その日は会社へ帰る車中でとてもだるくて疲れていました。帰宅してからは夕食を作る気にもなれなくて、ベッドの中で休んでいました。
そして夜、トイレに立った時に下着が出血で汚れていました。動揺しながらも私に限って大丈夫という変な自信みたいなものがありました。けれどとにかく夜間だったけれど電話を入れてから産婦人科へ。
「家で安静にしてください。」と薬をもらって帰宅。
妊娠初期に多少の出血があるのは、そう珍しくないことだと何かで読んだことがあり、さほど心配ではありませんでした。

ですが大事を取って、翌朝、会社に事情を説明し休みをもらって1週間。けれど出血は止まらない。それどころかどんどん量が増えていくのです。
でも、私にはまだ危機感がありませんでした。様子を見に来た実妹が、そんな私に早く病院に行くように促しました。そして午後に受診。即入院。妊娠15週の時でした。

規則的にお腹に張りが起きているとのこと。切迫流産でした。
ウテメリン(張り止め)の点滴が開始され、トイレや食事以外はベッドの上で安静に。
ウテメリンの副作用からか、常に吐き気と動悸に悩まされることになりました。



1998年4月  

入院して約1ヶ月。
出血はまだ続いていました。
そしてある日、生理の時にあるような下腹部の鈍痛、重い感じがあり医師に伝えました。
そして1日2回3日間、点滴で抗生物質を投与。
その後お腹の赤ちゃんも元気でお腹の張りも落ち着いてきたので、点滴が外れることになりました。
午前中に最後の点滴が全部無くなったところで不自由さから開放されました。
そしてその日の夜中違和感を感じトイレへ。水っぽい出血が「多い日用」の生理ナプキンいっぱいに染みこんで重たくなっていました。
なんで?出血?しかもこんなに大量・・・。点滴をはずしたから?
でもまだこの時も、看護師さんに報告はしたけれど危機感はありませんでした。
次の朝、主治医が回診に来たときにそのことを告げると、「後で診てみましょう」と言われました。


「羊水過少かもしれません」
エコーで子宮と赤ちゃんの様子を見ていた医師が言いました。
本来なら羊水は黒くうつるはずなのですが・・・・赤ちゃんのまわりにはそれがほとんど無く・・・・
「え?どういうこと?」と訳がわからずにいました。
個人病院の為、そこではもう対処しきれなくなったのか設備の整った国立の総合病院へ転院の手続きをすることに。
           
午後から母と看護師さんに付き添ってもらってタクシーに乗りました。久々の外の景色。桜はとっくに散っていてツツジが綺麗に咲いていたのが印象的でした。
そして総合病院の産婦人科外来に到着。
たくさんの患者さんが待ってる中、私は優先的に診察を受けることになりました。タクシーに乗ってる間も、病院の玄関から外来に向かって歩いている時もお腹は頻繁に張りました。

それでも私は自分の身に起こっていることの重大さを知らないままに、受診を待ってる間に付き添ってくれていた個人病院の看護師さんに
「今、赤ちゃんはどれぐらいの大きさなの?」とのんきに聞いていました。


暫くして診察になりエコーを厳しい面持ちで見ていた医師が言いました。
「今の時点ではなんともいえませんが羊水過少というよりも破水した可能性が高いです。検査の結果を待ってみましょう。」
すぐに病棟へ移されウテメリンは錠剤で、抗生物質は点滴で投与を開始。ここでもベッドの上で絶対安静となりました。そしてお腹の張りも、また感じられるようになってきて・・・。
ベッドの上で私は考えていました。
(破水?破水って赤ちゃんが生まれる直前に起きるんじゃないの?) 
漠然と考えながら、なんだか、宙に浮いたような感じでした。

これから先に待ってることなんて、なにも考えることは出来ませんでした。
それから数日間、何度もエコーで見たりしたけれど羊水は少ないまま・・・。
まだこの週数だと赤ちゃんは羊水の中で自由に動き回れるはずなのに、
エコーに映し出される私の赤ちゃんは窮屈そうにしていました。
「そろそろ胎動が感じられるはずよ?わかりますか?」と、看護師さんから言われるけれど、私は全く胎動を感じることが出来ず。。。

もしかしたら、子宮の中でキュウキュウになってた赤ちゃんは動けるはずがなかったのかもしれません。
           
そして・・・数日後やはり破水だと診断されました。
私の場合、ずっと出血が続いていたのでいつ破水したのかは断言は出来ないが、出血してると破水自体もわかりにくいと言うことでした。
でも思い返してみると、最初に入院していた個人病院でウテメリンの点滴がはずれた日の夜中に破水したのではないかと私は思っています。
だって明らかにいつもより量が多い水っぽい出血だったから。
抗生物質を投与してもらった直後だったのに、それが効かなかったのだろうか・・・。

細菌感染による前期破水でしょうということでした。
もし私が明らかに多い出血だと感じた日に破水したのだとすると・・・その時は妊娠20週でした。

でも?
破水したからなに?

・・・・主治医の口から出てくる言葉に全神経を集中させていました。
冷静に聞いていたと思います。
これは最悪なことになるのかもしれない・・・・そう考えながらもちゃんと聞いていました。

「中絶?!」
主治医は最終的には私たち夫婦で結論を出してください。
・・・と、言う。


21週というと中絶が出来るギリギリの週数。
22週になると法律で中絶はできない。
でも、なぜ中絶なのでしょうか?
今まで張り止めや抗生物質の投与を受け、赤ちゃんを守ってきたはずなのに。私は訳がわからなくて混乱しそうになりました。

医師の説明では、まだこの週数で破水したとなると赤ちゃんの肺が成熟できず、たとえこのままお腹の中でもたせて大きくなって出産できたとしても、産声をあげられず肺呼吸が出来ずに亡くなってしまう可能性が大きいと・・・。
もし呼吸がかろうじて出来ても障害が残るだろうということでした。

            
正直、この1ヶ月ちょっとの間、24時間ずっと点滴につながれっぱなしで私はとっても疲れていました。
入院中もお腹の赤ちゃんのことよりも自宅に置いてきた2匹の猫のことが心配でたまりませんでした。

それにまだなんとなく実感が無かった・・・私の身に起きてることなんだけど、でも、何処か他人事のような・・・そんな感じでした。
でも、決定しなければならなかった。
タイムリミットは刻々と近づいていく。

主治医ではなく様子を見に来た若いドクターに聞いてみました。
「先生なら・・どうする?先生の奥さんがこうなったら・・・・。」  
「・・・ぼくなら・・・今回は諦めると思う。」
「そっか。そうなんだ。」  

赤ちゃんは・・今、お腹の中で苦しいのだろうか。
私も苦しい。
そしたら、ここで終わりにしてあげたほうがいいのだろうか。

でも、お腹の中に留まらせれば赤ちゃんは大きくなることができるかもしれない。万が一、呼吸だって出来るかもしれない。
あと数ヶ月絶対安静のまま過ごし、望みを賭けて産んであげた方がいいのではないか。たとえ障害が残っても、私の可愛い赤ちゃんには違いないのだから・・・・。

葛藤だった。

生きてきた中で一番悩んだ「答えを出す」ということ・・・・。
タイムリミットは近づいてる。
でも、簡単に出せる答えじゃない。
「時間をください・・・。」
そう伝えるのが精一杯でした。

一晩、ベッドの上で考えていました。
羊水がほとんど無いこの子宮の中で私の赤ちゃんは動かなかった。
でもお腹の上に手を置いて、心の中で話しかけました。
「あなたは・・・どうしたい?生まれてきたいよね。ごめんね。今まで自分のことばっかり考えてた。ごめんね。」
一生懸命、一生懸命話しかけました。

破水したと考えられる日の直前、私は夫と電話で話しました。
話したというより・・・・声を聞きたくて電話したら受話器の向こうから聞こえてきたのは励ましの言葉でも慰めの言葉でもなく、
「おまえのせいでこっちは大変なんだ。洗濯も掃除も飯だって自分でしなくちゃいけない。仕事でクタクタなのになんでこんなことまでしなくちゃいけないのか。お前、ちゃんと安静にしてるのか?安静にしててなんで退院できないんだ?!」
という怒りに任せた夫の声。

私はこのとき、本気で離婚を思いました。

こんな人と、この先やっていけない。
仕事で大変なのはわかってる。でも、私には今、支えが必要なのに、こんなに辛いのに、この人はなぜこんな残酷なことが言えるのか。 
こんな人と結婚したのは間違っていたのかもしれない。それなら、今、お腹の中にいるこの子もいらない。

私は、そう思ったのです。
悔しくて悲しくて寂しくて、一人、ベッドの上で泣きました。

・・・・だから?
赤ちゃんは私が「もういらない」なんて思ったから、私のところから去っていこうとしているのだろうか。
失望したのだろうか。
怒っているのだろうか。
泣いているのだろうか。

・・・出血は止まらない。

ただ、怖かった。怖くてたまらなかった。
時間が戻せるなら・・・・妊娠した頃に戻って毎日毎日お腹に話しかけ、体を労わり、仕事も無理しないで、ただただ無事に生まれてきてね・・・と、語りかけるのに。



1998年 5月1日


その日は妊娠週数21週3日になっていました。
一晩考えて、出した結論。


「今回は諦める」



きっと私は・・・もう自分が楽になりたかった。
だから諦めようと思ったののではないかと思います。。
夫からも言われました。
「もし障害を持って生まれてきたら、俺は自信が無い。子供にも辛い思いをさせるのではないか。」
その言葉に傷つきながらも頷く自分がいました。
綺麗事ばっかり言っても、私だってきっと自信が無いのだ。

でも、もしここで夫が「とにかく頑張ってみよう。障害を持って生まれてきても頑張って育てよう。もし、お腹の中にもたせていても死産になったら。。。。その時は運命だ。」と、言ってくれていたとしたら・・・?
・・・きっと私は、点滴につながれたまま絶対安静を選んだだろう。
それぐらい私には自分で判断する気力が・・・・なかったのです。
自然の流れに任せるならば、今、ウテメリンをやめてもらったら・・・赤ちゃんは出てきてしまうのか。
それとも薬の力を借りながら、できるだけのことをするのが自然なことなのか。
考えても考えてもわからなかったのです。

お昼前、自分たちの決断を看護師さんに伝えました。
暫くして婦長さんが部屋に入ってきました。
まだ迷ってる私の目を見て、励ましてくれます。
でも、「次に赤ちゃんが授かった時」そんな言葉が、納得できずにいました。とても心にひっかかってしまったのです。
私には今、次の赤ちゃんなんて考えられない。
今、存在しない赤ちゃんのことは考えられない。
たった今、そう、今この瞬間も私のお腹の中で生きている小さな赤ちゃん、この子を助けて欲しいだけ。
それが無理だと言うのならこの苦しみから私を助けて欲しいだけなのです。



昼食後、処置が始まると言うことでした。
こんな時にご飯なんて食べられるはずがないのに、なんで食べてるのか自分でもわかりませんでした。
同意書だって書きました。
確か「子宮内容除去術」だと書いてありました。
この言葉、非常にショックでした。
私にとっては、今、命あるものを抹殺すること。
法律的にはまだ「人間」として扱われるギリギリ前だということは、承知しています。
だけど、この言葉は、私には残酷すぎました。
この子は、どのような思いで、今、私のお腹の中にいるのだろう。

まずラミナリアという海草で出来た棒状のものを、1本、2本、3本と時間をあけて様子を見ながら子宮口に入れていくのだと。
陣痛を起こすために促進剤を入れることになると思う。きっとお産まで3日ほどかかるだろうと説明がありました。
これから長く苦しい戦いが始まるのだとその時、とても怖くなりました。もしかしたら、ここから逃げ出せば・・・・赤ちゃんは助かるのかもしれない。
そうだ。逃げよう。
赤ちゃんと運命を共にしたってかまわない。
そんな考えがグルグルグルグル頭の中を駆け巡っていました。
しかし、看護師さんが迎えに来ました。

・・・・・もう、逃げられないんだ。覚悟しなくちゃいけないんだ。

どう処置室に向かったか、もう覚えていません。
でも、あのラミナリアを挿入された時の激痛は今でも忘れられません。
あの突き刺さるような痛み。
「痛い!」叫んでいました。

部屋に戻ると、何も知らない友人が見舞いに来てくれていました。
でも、なにも話す気になれなかった。
「お願いだから今日は帰って・・・」相手のことを思いやれる余裕など微塵もありませんでした。
そしてすぐに生理痛のような鈍痛が始まりました。

私は、「お産」をするのだ。
麻酔して眠ってる間に処置をしてくれるのかと思っていたけれど、それは大きな思い違いでした。
普通のお産のように赤ちゃんを産まなきゃいけない。
陣痛は、とても痛いものだと聞く。
しかしそれは、可愛いわが子に会えるからこそ、母親はその痛みに耐えることが出来るのではないだろうか。
この苦しみを乗り越えたら、とても幸せな瞬間が待っていると信じているから頑張れるのではないのだろうか。

しかし、私は・・・・?
「産む」=「死」を意味するお産が今から始まろうとしているのだ。

ただ、ただ、時間が過ぎ去ってくれればいい。
もうこんな辛いことは早く過ぎ去って。。。。

その日の晩、消灯時間が過ぎて暫く経ったころ、なにか温かいものがジュワッとおりた気がしました。
瞬間、また「破水かも」と思いました。
ナースコールをする。
看護師さんの腕につかまり、ヨロヨロと処置室に向かう。
当直医の若い女医さん。
「う~~ん・・・破水じゃないと思いますけどね。」
また部屋に戻る。
お腹の張りの感覚が・・・どんどんせばまってきてる気がする。
波が来ると、ググーッと今までにないぐらいお腹が硬くなる。痛い。
石のように固くなる子宮。
赤ちゃん・・・・ごめんね。ごめんね。

我慢していたけれど、やはり波はどんどん襲ってくる。
まだ夜中だったけれどナースコール。
モニターをつけられ分娩室に移動する。
だけど医師の診察はない。
きっと、まだ時間がかかるだろうと看護師・助産師さんが判断したのだでしょう。
だけど、悲しいのは・・・・
今までモニターをつけてくれるときは、赤ちゃんの心拍が聴こえるようにボリュームをセットしてくれていました。
私の鼓動よりはるかに速いその音。すごい。確かに私とは違うひとつの命がそこにはあると、確認できて嬉しかった。
しかしこの時は、陣痛の波の間隔をはかるだけ。
確かに、今、心拍を聞いたら・・・私は狂ってしまうだろう。
もし、心拍が止まったら、私はどう取り乱すかわからない。
でも今は、かろうじて一生懸命冷静に努めました。

痛みは強く、ひとりでこらえる。
真っ暗な分娩室。
わずかなあかりだけがついている。
窓の外も真っ暗。この窓の向こうには星空が広がっているのだろうか。
月がのぼっているのだろうか。
神様は、今の私を見てくれているのだろうか。
私にはわかる。赤ちゃんは、私から出て行こうとしている。
赤ちゃんはきっと今、苦しんでいる。
だから祈らせてください。お願いします。
今回はこの子を、神様、あなたのもとにお返しします。
だから・・・もう1度この子を授けてください。
どうかこの子が苦しまないであなたの許に帰れますよう。
そして身勝手ですが・・・いつかまたこの子と会わせてください。
どうかどうかお願いします。
今回はお許し下さい。どうかどうか・・・

そうずっと心の中で暗い窓の外に向かって祈り続けました。
繰り返しやってくる陣痛の波。痛いとは決して言うもんか。今の私にできることは祈ることだけ・・・。
祈ることで自分を落ち着かせようとしていたのかもしれません。
宗教なんて持たない私が。

時々はウトウトしていたのかもしれません。
しかし朝になるまで早かったような長かったような・・・・
時間の感覚がまるで麻痺していました。


1998年 5月2日

朝9時半ごろ母が分娩室にやってきました。
疲れた私の顔を見て「一人で辛かったろう・・・ごめんね。」母の目には涙が光っていました。

その時、陣痛の波は遠ざかっていました。
一旦部屋に戻ります。
そしてお昼に内診。子宮口は、かなり開いていたらしくラミナリアの追加はされませんでした。
そして人工的に陣痛を起こすため、座薬の陣痛促進剤が入れられました。この時も「長期戦になると思う。」そう医師から言われました。 

部屋に戻って30分ほど経った頃、再び陣痛が襲ってきました。
間隔はどんどんせばまります。
時計を見ると7分間隔。母が慌てて看護師さんを呼びに行きました。     
痛い。痛い。動けない。
ベッドに横になったまま分娩室に運ばれました。

また何かあったら呼んでください・・・と言われる。
母はずっと心配そうに私の腰をさすってくれました。
何度も何度も襲ってくる波。
「もう少ししたら先生に診てもらいますね。」様子を見に来た看護師さんが言う。

そしてお腹に違和感が走る。
両足がぶるぶると震える。
「いきみたい」とっさに母に伝える。いきみたいなんてどういう感覚かわからないのに。

助産師さんが診に来ました。「まだ赤ちゃん降りてきてないよ。」
そんなはずない。おかしいよ。
「歩けますか?内診台に行けますか」
「無理です。歩けない。」
そうやり取りしてる時に主治医がやってきました。
「あ、赤ちゃん降りてきてるね。産まれるよ。」
産まれる?生まれる?うまれる?
・・・・・・・って、なに?
この子にとって生まれることは死ぬことなのに。
生まれるなんて言葉、不適切だよ、おかしいよ。
心の中で叫んでた。   

午後2時14分。
420グラムの女の子だった。


1回もいきまないうちに、赤ちゃんは産まれました。
にゅるんと、温かくて柔らかいものが太腿に触れました。
続いて臍の緒が、また太腿を撫でていきました。

赤ちゃんは泣きませんでした。

私に赤ちゃんを見せることなく、看護師さんが分娩室の外で待っている母の元へ連れて行ったようでした。
銀のトレイに乗せられた小さな赤ちゃん。 
母は泣いたそうです。想像していたよりはるかに大きく成長していた赤ちゃん。
可哀想なこの子を思い、可哀想な私を思い、母は泣いたのでしょう。
初孫になるはずだったのに・・・・・・。

私は、母を悲しませてしまった。
とても親不孝なことをしてしまった。

赤ちゃんが産まれてすぐ、胎盤を引き剥がされました。
とても痛くて叫んでしまいました。

終わった・・・・
終わったんだ・・・
何もかも疲れきってしまった。悲しいのに涙も出ない。
疲れてるのに眠れない。

~2~へ続きます。
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人工死産体験談<ケース9>

空9


【ケース9】 2006年5月2日    


私は今年の2月に初めての子を前期破水(人工死産)にて娘を亡くしました。
13週から下腹部痛と出血で切迫流産と診断され、その後は仕事を休み自宅安静をとっていました。 

1月31日(16週)
夕方いつもにないお腹の痛みがあり、夕食後テレビを見ていると生温かいものが出ているのに気づきました。
トイレへ行くと、出血が薄まったピンク色の水のようなものがナプキンにずっしりと出ていました。
しかしその時は破水には結びつきませんでした。破水なんてものは産まれる直前に起こるものだと思っていたからです。
ちょうど3日後が受診日だったので、その時に先生に言おうと思い病院へは行きませんでした。
その晩出血が大量で、その翌日もかなり多かったです。今思えばその出血も羊水だったのかな‥と。

2月3日
受診すると、いつも見ている赤ちゃんが見えません。黒く写っている羊水が全くありませんでした。
車で待っていてくれた主人を呼び、先生から説明を受けました。
羊水がないと肺が育たないこと、感染しやすいこと‥ その時はとにかく「厳しいです」の言葉しか頭に入りませんでした。
しかしまれに羊水がまた溜まってくることがあるかもしれないとの事で、入院して様子を見ることになりました。
まずは感染予防の点滴1日2回と、張り止めの内服薬、1日1回の消毒、ベット上での安静が5日くらい続きました。
その間も羊水が溜まってきているか見ながらも、まだ溜まっていませんでした。
そして、抗生剤の点滴は1週間しか使えないそうで、残りあと2日で諦めるよう言われました。そのときの診察は主治医ではありませんでした。そして2日後‥やはり羊水は溜まってきていません。この日は私の信頼する主治医の診察で、「あなたはどうしたいですか?」と、私の希望を聞いてくれました。私はもちろん「この子が生きている以上諦めることはできません」と伝えました。すると先生は点滴をやめ少し弱い抗生剤の内服薬で様子見てみよう、と提案してくれたのです。
私は今日で諦めなければならない‥と絶望していましたから、先生の言葉に光を見つけることができ嬉しかったです。
そしてその日から点滴は外され、内服薬で様子を見ることになりました。
ここの病院は医者がたくさんおり、回診の先生も様々でした。先生によって意見も違います。
感染さえ起こらなければこのままお腹に置いておくことができる‥しかし生まれても呼吸ができない‥障害が残る‥22週まで待って外に出し育てる方法もある‥ 障害が残ることについては、主人と相談し「頑張って愛情いっぱいで育てていこうね」と決めていました。

2月14日
主治医が病室へ来て、今までの経過とこれからのことについて話してくれました。
いつ感染してもおかしくない状態で、感染すると最悪子宮摘出になることを告げられました。この状態で22週まで待つことは母体にとって危険だということでした。この子が無事に生まれてきてくれるのなら、子宮がなくなったって何の後悔もありません。
しかしこの子の生存率はゼロに近いことも説明されていたので、その上子宮まで失い一生我が子を抱くことができない‥と考えると怖くて仕方ありませんでした。「赤ちゃんはお母さんが大好きだから、そんなお母さんに辛い思いはさせたくないはずだよ」と先生に言われました。私は今まで自分のことしか考えてなかったことに気づきました。「何が何でも産みたい!!」としか考えておらず、赤ちゃんにとってどうなのか、赤ちゃんはどうしたのか‥と、考えるようになり「あなたはどうしたい?このままお母さんのお腹にいたい?それとも苦しいから早く外へ出たいの?」とお腹に何度も何度も聞きました。赤ちゃんの意見が聞きたかった‥ 赤ちゃんの意見を最優先で考えたかった。

2月15日
主人、私の両親を呼び、もう一度主治医から説明を受けました。
羊水がないお腹にいる赤ちゃんはいつ見ても身動きとれずとても窮屈そうでした。苦しいんだろうな‥ もし22週まで感染せず外へ出すことになったにしろ、小さな小さな体に蘇生・延命の為にたくさん管を入れられ痛い思いをさせるのはかわいそうだと思いました。それなら楽にさせてあげたほうが
いいのかな‥ 悩んでも悩んでも答えが出ません。しかし先生から「人工死産をするにしても、お腹の中で息絶えてしまうときの苦しみは、赤ちゃんが小さければ小さいほど少ない」と言われ、私はもう迷ってはいられませんでした。それなら1日でも早いほうが赤ちゃんの苦しみが少ないと思い、人工死産を決心しました。説明が終わると、子宮口を広げるラミナリアを入れる処置に入りました。両手両足を押さえられるほど私は痛くて痛くて暴れていました。
最後の夜を主人と赤ちゃん3人で過ごし、そして翌朝‥

2月16日
ラミナリアを抜去し、次は陣痛を起こす薬を膣に入れ陣痛を起こしました。2時間後にもう一度入れ、陣痛は更に強くなり‥ 
息絶えて出てくると分かっている出産の陣痛ほど悲しいことはありません。「死んだほうがましだ‥」と本気で思ってしまうくらいでした。

13時20分 分娩室へ
だんだん薬が切れてきて陣痛の波も軽くなってきていました。いきむことがなかなかできなかった。足が出たところで「早く出してあげよう」と頑張るようになりました。

14時40分 
産声をあげず私の元へ出てきてくれました。
痛みから解放された私はこの現実を改めて感じ泣きじゃくりました。
赤ちゃんはキレイにしてもらい、ガーゼで包んで箱に入れた状態で対面‥ 想像していたより遥かに大きい我が子でした。目も耳も鼻も口も指先の爪までちゃんとできているかわいいかわいい娘でした。18週 265グラム 22センチ‥ 「お母さんのお腹でこんなにも大きくなっていたんだね」と、無事産んであげることができなかったことに「ごめんね‥ ごめんね‥」とひたすら謝りました。主治医の先生は「よく頑張ったね」と涙して言って下さり、私はその涙と言葉にどれだけ救われたことか‥ 本当に先生に感謝しています。

2月17日
「赤ちゃんに会わせて下さい」とナースステーションへ行きました。冷蔵庫に入っていた娘は冷たく赤くなっていました。しかし娘が微笑んでいたのです。
昨日は無表情だった娘が口をにこ~っとして微笑んでいるのです。「お母さん、これで良かったんだよ‥」と言ってくれているかのようで、涙が止まりませんでした。

2月18日
娘と共に退院。実家へ帰り、母親が買ってきてくれた赤ちゃんの肌着を着せ、妊娠中に作ったうさぎさんや写真・花を入れてあげました。
娘を写真に残そうか、とても迷いました。死んでいる写真‥ しかしやはり撮ろうと思い顔だけですが何枚か撮りました。今となっては、微笑んでいる娘の写真は私にとっての宝物であり、毎日元気付けてもらっています。

2月19日
火葬。火葬場まで箱から出しこの手で抱いていきました。
火葬場の人に「早く忘れないと次妊娠できないわよ」と言われ私は「何で忘れなきゃいけないの!!」と怒りでいっぱいでした。
骨は針金のように細かったですが、ちゃんと残ってくれ大事に大事に拾いました。
半分は私の祖父がいるお墓へ、そして半分は家へ持ち帰り毎日親子3人で過ごしています。

あれから2ヶ月半‥
私は仕事を辞め、ほとんど家で過ごしています。外出すれば妊婦さんや赤ちゃんに異常なほど反応してしまい、平常心を保てません。
「どうして私の赤ちゃんはもういないのに、あなたの赤ちゃんはいるの?」と、この現実にまだ対応できません。
インターネットや本で情報を集めまくる日々が続き、だんだん後悔する気持ちが強くなってきました。
あの時あの選択をした自分が許せません。まだ生きていた命を私の判断で‥ と思うと謝っても謝りきれません。
どうして娘の生命力・奇跡を信じることができなかったんだろう‥ 娘は生きたかったのかもしれない‥ 後悔が尽きません。
しかし娘の誕生・死は、とても私たちに与えてくれたものが大きく意味のある’死’だったと思います。
果たして私たち生きてきた人間の死はこれほど伝えるものがあるのでしょうか‥ と、’赤ちゃんの死’は特別だと思いました。
悲しみも想像できないほどに大きいけれど、それに負けないくらいの得るものがあったような気がします。
今はまた新しい命が授かることを願う毎日です。
私は生理・排卵のない排卵障害で、誘発剤にて娘を妊娠しました。一度妊娠するとホルモンの状態もよくなり不妊も治る‥と聞いていたのですが、死産後も不妊に何の変わりもなく治療を再開しました。娘を妊娠したときより更に状態が悪くなっていた結果に絶望しました。
しかし治療をしなければ妊娠はどんどん遠ざかっていく‥と思うと、頑張るしかありません。お空から見てくれている娘を「お母さん頑張って前を向いているよ!」と
早く安心させてあげたいです。命尽きるまで精一杯生き、そして娘に会いに行きたいと思っています。
お母さんはあなたに会えて幸せです。たくさん大切なことを教えてくれてありがとう。これからもずっとお母さんにとって自慢の娘だよ。
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人工死産体験談<ケース8>

空8


【ケース8】  2005年8月24日    

死産で検索していたらたどり着きました。人工死産。その言葉は私も深く傷つきました。
私の体験談を聞いてもらいたくメールしました。文章力がないので読みづらいと思いますが
私が結婚したのは2004年2月20日です。そして初めて妊娠したのが2004年10月のことでした。新しくパートの仕事に就いたばかりだったので少し戸惑いもありましたが、嬉しかった。 初めての妊娠で分からないことだらけでした。でも順調に赤ちゃんは成長していました。

しかし2005年1月2日。実家に兄弟家族が集まり楽しく過ごしていました。私も5ヶ月に入り安定期だね、なんて話していました。その矢先、突然水のようなものがたくさん出てきました。「えっ?何?」急いでトイレに行きました。でも止まることなくどんどん出てきます。もしかして破水?!まさかこんな早い時期に?

私は前期破水という言葉があることすら知りませんでした。急いで病院に行くと
その時すでに出血が始まっていました。私はこの時初めて危険な状態なんだと分かりました。16週でした。先生から「破水してしまって羊水がすべてなくなりました・・・・継続は無理でしょう」 ・・・涙でいっぱいになり先生の話がよく聞こえなかった。「このままでは母体が危険です。人工的に陣痛を起こし赤ちゃんを出すことになります」先生の言っている意味がわからなかった。陣痛をおこして赤ちゃんをだす??なんで??

そして2005年1月6日。女の子を出産。赤ちゃんに会わせてもらえず分娩台の上で死産届けの書類を書かされ、旦那にすぐ市役所へ行くように指示していました。そして小さな小さな箱に詰められ旦那が火葬場へ行きました。

それから私は毎日毎日、家に引きこもり泣いていました。原因不明の破水と言われ原因を一生懸命考えていました。それでも少しずつ外へ出れるようになり、友達とも遊べるようになり、働きにもでました。そんな忙しい生活をしているうちに前向きに考えれるようになってきました。

そして・・・・

2005年5月妊娠。嬉しかった。それと同時に不安に襲われました。また同じことが起こるんじゃないか。でも赤ちゃんの生命力を信じよう!同じことはおこらない!そして不安を抱えながらも二度目の妊娠生活が始まりました。16週目が近づくごとに怖くてたまらなかった。でも16,17,18週と何事もなく迎えられました。

8月に入りもうすぐ6ヶ月!とても幸せでした。それなのに・・・
検診にいくと先生、看護師さんたちが慌しくなっている様子がわかりました。「子宮の出口あるよね?頸管って言うんだけど普通この時期4センチくらいが正常なの。それが半分以下になっちゃってるから、総合病院紹介するから念のため診てもらって。」
先生は落ち着いた様子で説明してくれました。何となく理解できました。そして総合病院に行き検診してもらった結果、頸管の長さが5ミリしかない、と。ここに来るまでに短くなってしまっていた。即入院。でもこの時私はまだ安心していた。入院していれば大丈夫だと。

次の日。頸管の長さ3ミリ。私は目の前が真っ暗になりました。涙でいっぱいでした。仕事を早退して駆けつけてくれた旦那が「絶対無事に生まれてくるから大丈夫だよ!」そう言ってくれました。翌日。子宮口が開いてきました。そして先生から手術の説明がありました。頸管を縛る手術。

破水の危険を伴うけど手術をするか聞かれました。やれることはやろう!そう旦那と話し合い翌週手術をすることになりました。
しかし翌日、胎胞がでてきてしまい、その日のうちに手術になりました。怖かった。破水するんじゃないか。・・・先生の「無事終わりましたよ、赤ちゃんも元気ですよ。」ホッとして涙がでました。これで赤ちゃん大丈夫だよね、よかった。
手術から5日後、縛った部分からさらに胎胞が出てきてしまいました。もう縛りなおすことはできない、このまま24週までもってくれれば助けられる。そう説明がありました。大丈夫!絶対大丈夫!!

二日後、破水・・・・20週。この時点で羊水は全部なかったのです。でも羊水が増えるかもしれない、その言葉を信じて一日一日を待ちました。早く24週になれ!
でも羊水がないまま赤ちゃんをお腹に置いておいて赤ちゃんは苦しいんじゃないか?身動きとれなくて可愛そう。そんな弱気な私をみて旦那が「赤ちゃんががんばってるのにお母さんが弱気でどうするよ!!」そう言われました。
そうだ!赤ちゃんはがんばってる、私ががんばらなきゃ。お願い、羊水増えて!!!毎日毎日祈りました。

21週目。羊水は増えてなかった。命の選択を迫られました。このまま継続しても肺が育たない、一生寝たきりの障害を持つ子が生まれる覚悟がなければ諦めたほうがいいと・・・。
そんなの決められない。ここまでがんばってきたのに。赤ちゃんもがんばってるのに。諦めるなんてできない。あと3週間だもん。産みたい。
でも正直覚悟なんてなかった。障害をもって生まれて幸せなのかもわからない。旦那と激しい言い合いになった。ずっとがんばれって励まし続けてくれていた旦那。側にいてくれた旦那。これからまだ長い人生、二人の人生大切にしたい。そう言われた。赤ちゃん見殺しにできない。決められなかった。この子はどうしたいんだろう・・・ごめんね、ごめんね。何度も謝った。

諦めます。先生に伝えた。でも私には諦めてよかったんだ、なんて思える日は一生来ない。自分達のために赤ちゃんを犠牲にした。それは一生背負い続けなければいけないんだって思いました。

2005年8月18日。400グラムの可愛い可愛い女の子。旦那が「宝塚にはいれるね」って言いいました。普通の赤ちゃんと同じように真っ白なお布団にくるまれて会わせてくれました。「本当可愛い子だね」看護師さんたちが言ってくれました。初めて会えたわが子。愛おしくてたまらない。会えてよかった。

それから退院し、お葬式、火葬をすませ自宅へ帰ってきました。
私には二人の天使がいます。なぜ二人もいるのかわからない。でも必ず意味があるのだと思います。
まだ寂しくて悲しくて会いたくて気持ちがごちゃごちゃだけど、必ず前に進めるからその日までゆっくり過ごそうと思います。

いつか必ず会える、そう信じて生きていきます。長い話、読んでくれてありがとうございました。
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人工死産体験談<ケース7>

空7


【ケース7】 2005年8月23日  

基礎体温を一生懸命つけて2年間。微塵も妊娠しなかった。助産師だけど、結婚したらすぐ妊娠できるものと思ってました。
頑張っても変わらない毎日に変化をつけようと、また働き始めた2004年4月。基礎体温もやめました。そしたら5月、毎月来るものが来なくて・・・・何回も検査薬しました。何度しても陽性でした。
勤めだしたばかりなのに、院長に診察してもらいました。申し訳ない、、、でもうれしかった~~。うれしかったから仕事帰りにプーさんのノートを買い、初めての日記もつけ始めました。エコーにうつった小さな袋、それが私の妊娠の証でした。もしかしたらだめになるかもしれないから、、って夫に言ってもうれしくて仕方ないらしく、いろいろ身内に電話してたなあ・・・。
妊娠がわかっても私は助産師。患者さんには言わないけど、つわりの患者さんにも陣痛に耐えてる患者さんにも無事お産を終えた患者さんにも、自分のことのようにうれしくもあり親身になれました。「私も本当は妊娠してるんです」いつか言ってしまいそうでした・・
夜勤中に走り回るほどお産があったり、急を要して患者さんを抱えたり・・
マザークラスでは『しないでくださいね』って言うことばかりしてました。
(後になって思えば、こんな生活も悪かったのか…)
でも妊娠はすこぶる順調。仕事の合間に検診、そのときにもらったエコーはカラーコピーしてプーさんノートに貼って。。。。それでも楽しくて楽しくて・・私だけの楽しみでした。

2004年6月25日(9w)
予定日が決まりました。2005年1月25日。そして翌日、母子手帳をもらいにいきました。念願の母子手帳。仕事では見慣れた母子手帳。私のは光って見えました。

おなかの中でチビたんはどんどん大きくなりました。エコーではいつもきれいな体育すわり。だから見せてくれない。性別は「きっと女の子!!」と夫に豪語してました。とりあえず性別が分かるまでは『チビたん』でいこう!!

2004年8月31日(19w0d)
仰向けで寝てると、おなかがむむむっと違和感を感じました。「もしかして、これが胎動か~~??」うれし~~~~。夫が触っても動かない。でも私にはわかる優越感。このころからチビたんは時々合図を送ってくれてました。でも仕事も忙しくておなかが張ったりチビたんがトントンしても返してあげれなかった・・・

2004年9月14日(21w0d)
おりものも多いし、おなかがけっこう張ってて心配になり予定より3日早めに診察してもらいました。また仕事の合間に・・おなかからのエコーが長い気がしました。私から見える画面では院長はチビたんの頭ばかり見ようとしています。なんで???チビたんも大きくなってるし心音もしっかりしてるよ、と言われました。が、おりものも多いと言っていたので内診台へ・・。おりものは問題なけど、こちらでもなが~いエコー。怖くてエコーの画面を見てられなかった・・・・
涙が出そうだったけど、みんないるし、平静を装って内診室から出ました。院長の前に座ると、院長もいつもと変わらない表情で『ちょっと分かりにくいところがあるので、エコーの専門の先生に診てもらっておいで。明日の午後、休みにしていいから行っておいで』と・・
私も産科でずっと働いてる助産師。瞬間、「だめなんだ」と思いました。午後も普通に働きましたが、頭の中はごちゃごちゃでした。目の前にいる患者さんの赤ちゃんを見ることができませんでした。
その夜、夫には大きな病院に行くことだけ伝えました。夫は「一緒に行こうか」と言ってくれましたが、断りました。心配かけたくなかったからなるべく笑って「大丈夫だよ」と言って・・
本当は不安で不安で吐きそうなくらいでした。

2004年9月15日(21w1d)
午前中普通に仕事をし、午後、そのまま紹介状をもって大きな病院へ行きました。診てくれる先生はよく当直に来てくれる先生です。その先生ともう少し若い先生と2人でエコーしてくれました。「二人の目で見たほうが確かな診断ができるから」って・・・
おなかの上からも、下からも。。。。その時間、約1時間。絶望でした。
私の仕事も知ってるせいもあってか、先生たちは病名を英語で言ってました。でも分かるものもいくつかあって…。ほんとエコーされながら涙が出ました。
診断は脳が発達しない病気で20000~50000人に1人の珍しい病気。病気のため大脳が出来てないといわれました。生まれても呼吸も自分ではできないかもしれない病気でした。
帰りの電車から夫に泣きながら電話し、心配して駅まで迎えにきてくれ、職場へ電話し、院長に会いに行きました。
院長から妊娠を継続するかどうかを二人で決めてくださいと言われました。日本の母体保護法では22週以降の人工死産は認められていません。もし諦めるなら2日かかります。私たちに考える時間はこの夜しかありませんでした。正直、治らない、長く生きれない、退院も出来ないかもしれない病気の子供を受け入れられるか私には自信がありませんでした。それは夫も同じだったようで、夫の両親にも報告した結果、諦めることに決めました。
夜中、目が覚めて持ってる参考書を読んだり、ネットで病気を調べたら生まれてから見つかった同じ病気の子供を育ててる方がいらっしゃいました。でも1~2歳で亡くなられていました。
私がチビたんの命の終わりを決めてしまった。生きる権利を奪った母親だ。
涙が止まらない私のおなかの中をチビたんは動きまくっていました。

2004年9月16日(21w2d)
朝、院長に電話して中期中絶をお願いしました。昼前に入院したら、今日は休みのはずの助産師仲間がきてました。私の担当だって。
午後、子宮口を広げる処置。それまでは雑談をしてカラカラ笑ってた彼女はこのとき泣いてました。夕方また診察。子宮口を広げる処置。痛かったけど、チビたんのほうが苦しい
から我慢しました。
その夜、夫は病院に泊まってくれました。チビたんは収縮する子宮が狭いのか今までになく動きます。夫がはじめて私のおなかを通じてチビたんの動きを感じました。動きまくってるチビたんは私に何を伝えたかったんだろう・・・

2004年9月17日(21w3d)
朝、膣の中に陣痛を起こす薬を入れました。その前に特別にお願いして最後のエコーをビデオにとってもらいました。チビたんは動きまくっています。お願い、もう眠ってて~。そう思いながら痛いおなかをさすりました。
午後0時30分 2個目の薬を入れました。今度はかなりの陣痛が来ました。おなか痛いのと、チビたんを産みたくないのとで泣きながら車椅子で手術室へ行きました。
小さいチビたんなのにいきんでもいきんでも出なくて・・4回くらいいきんでやっとチビたんは外に出ました。
午後2時14分
380g、26cmの男の子でした。私より若い助産師さんにあとから聞いたのですがチビたんはもう息絶えてたそうです。小さなチビたんはパパ(夫)に先に会いました。夫は「かわいいよ~」と笑っていってくれました。私には涙を見せませんでいた。チビたんは亡くなってしまったけど、夫が「かわいい」と言ってくれたのがうれしかった。
私は病室に戻り、スタッフが作ってくれた産着を着て箱に入ったチビたんに会いました。
かわいくてかわいくて、、本当にこの小さな頭の中に病気があったのかと思うくらい。
一瞬、チビたんの顔が緩んだように見え、息してるのかと思ったけど、触ったらもう冷たかった・・・・
チビたんはそのまま葬儀屋さんに預けました。遠くで赤ちゃんの泣く声がします。早くうちに帰りたかった・・・・院長が「退院していいよ」と言ってくれました。

2004年9月18日
葬儀屋さんから電話あり。火葬は明日になりました。
この日、夫は私をペットショップに誘いました。ここでコーギーの子犬に出会います。
夫はすぐ買いました。私もびっくりする間もなく・・・・
チビたん(男の子だったからチビタロウ)のいなくなった次の日に出会ったコーギー(♀)
「太郎」の相棒は「花子」だから『ハナ』と名づけました。ハナはこれから私たち夫婦の子供になりました。ハナが我が家に暖かい空気を誘い込んでくれました。

2004年9月19日
9時。チビタロウをお空へ返しました。小さいチビタロウが入る火葬場はほんとに小さいところでした。私が大事にしてたワンコのぬいぐるみと神社でもらった安産お守りも入れてあげました。私が苦しめてしまったから。
お骨も残らないチビタロウですが、灰は供養塔に残ることになりました。

私はちゃんと8週間、産休がもらえることになりました。
そのうち、2回診察で病院に行きましたが、動悸がして待合室では待てなかった。過換気になる自分がわかりました。
こんなことで仕事復帰できるのか、助産師の仕事は好きだけど、もうやめたほうがいいんじゃないか、自分がちゃんと元気に産んであげられなかったのに人のお産で『おめでとうございます』を言ってあげられないんじゃないか。そんなことを考えながらでも考えたくなくて
新しく家族になったハナのお世話をしながらだらだらした日を過ごしました。
今思えばこの産休の間、1人ではほとんど出かけませんでした。買い物にも行かない、外出もしない。軽い引きこもり。でもこのまま仕事をやめると二度と戻れない気がして仕事だけはやめないと自分の中で決めてました。

2004年11月13日
仕事復帰しました。みんなが気を使っているのがありありと分かるんだけど、
私はそれ以上に笑顔に徹しました。「助産師なんかならなきゃよかった!!」

~職場復帰してから~
私の仕事は助産師。お産がある限りお産に立ち会わなくてはいけません。
分娩室がふさがってるときは私がチビタロウを産んだ手術室でも分娩ができます。チビタロウを産んで、家で引きこもってるときよりも仕事復帰したときのほうが一番苦しかった。
赤ちゃんを見せたときのお母さんの顔、立ち会ったご主人の涙、ロビーで待つご家族の笑い声、沐浴するお母さんの母の表情、ベビー室で寝てる男のベビーちゃん。
どこもかしこも私が得られなかった現状ばかりでトイレに行っては涙を拭いていました。
何よりもお産された患者さんよりもそのご主人を見るほうが辛かった。
私の夫は何にも言わないけど、まわりでは普通に妊娠→出産とたどる経過がたどれず、ほんとにあたりまえのことが普通じゃない道に進んでしまって…。
「夫も今ごろあんな表情をして我が子を抱くはずだったのに抱かせてあげられなかった。お父さんにしてあげられなかた。」と思うと胸が苦しくて仕方なかった。
一番仲のよい兄夫婦、従兄弟、みんな順調な妊娠経過をすごし普通に赤ちゃんが産まれて、子供と遊ぶご主人を見てはまた涙が出そうになるのをこらえなきゃいけない日々でした。今でもそれはかわりません。
あれからもうすぐ一年になります。職場では本当に何にもなかったかのように時が流れてあれからもう一年たつなんて誰も覚えてないと思います。
でも職場復帰してから何度か人工死産がありました。私と同じ時期に致命的な病気が見つかり諦めたようです。人工死産に立ち会うのも助産師の仕事。でも私は立ち会えず、人に任せてばかり、、、、患者さんの気持ちがすごく分かるのに、自分の気持ちのほうが先行してしまって患者さんの心の支えになってあげることができないでいます。
よく「私も流産したときはいっぱい泣いた・・・でも考えても仕方ないよ」と何度もなぐさめられました。でも逆に落ち込むばかり。私は流産じゃない。私の決断で赤ちゃんの命を絶ったのだから。
そしてハナのことも「どんなにかわいがってもしょせん犬だから」といわれま
した。この言葉で何度落ち込んだか。やっぱり私の気持ちは誰にもわからないと確信しました。

でもまた妊娠したら同じ事が起こるんじゃないか、そんな不安もあり妊娠に積極的にもなれず、、、、
でも私は今もチビタロウの命を私の決断で絶った病院で働いています。まだ産んだことはないけど胎動の感じはじめをマザークラスで説明したり、安静のため点滴入院してる患者さんからは「(ハナ)さんも、子供がいたらわかりますよ~」と言われながら・・・・それが私のチビタロウに対するお詫びかもしれないと思いながら・・
プーさんノートの日記はノートの5分の1くらいしか使わずに終わっています。母子手帳は健診の記録が3行。何もかもチビタロウの思い出として途中で終わっています。でもまだしまうことができずいつでも取り出せるところにおいています。
最近の私はひたすら働く毎日。職場ではめそめそしたりはなくなりました。ただあれから一年もたつとまわりはかわってきます。
私と同じころに結婚した友達は2人目を妊娠し、最近結婚した子が次々妊娠し、職場の同僚は来年の1月26日が予定日。私と一日違い。人の妊娠報告を聞くたびに素直に喜べない・・・みんなあたりまえに妊娠が経過しています。私が超えれなかった21週3日もすんなり越えて・・・
夫は表には何にも言わないし、チビタロウのことも話題には出しません。どう考えているのかわからない分、怖いです。私と同じようにまた妊娠することが怖いんじゃないか、とも思います。
チビタロウを産んでほとんどもとの生活とかわらず過ぎてますが一つ変わったことは友達に会いたいと思わなくなりました。連絡をもらってもなんとなく会いたくない。仕事してなかったら誰にも会ってなかったかもしれない。
いつまでこんな気持ちが続くのか、いつまで人工死産から逃げていられるか私にはぜんぜんわかりませんが、時間は間違いなく過ぎているので私は仕事して夫とハナを大事にして生きるしかありません。
私のまわりには流産した人はいても、人工死産した人はいなくて気持ちを話す相手もなく
ほんと、このおかよさんのHPがなかったら仕事復帰もしてなかったと思います。私は自分だけがこんな体験をして、あたりまえに元気な赤ちゃんを産むことができなくて、人からは「辛いことがあっても頑張らなきゃいけない」と言われつづけ、誰も私の気持ちなんてわかってくれないと思ってたし私が泣くと、みんなが困るから泣いちゃいけないと思ってたし。
でもおかよさんのHPで同じ思いの人と出会い、PCに向かってしっかり泣いて外では頑張れるようになりました。「私の気持ちをわかってくれる人がいる」それだけで楽になれました。そして助産師だからこんな体験を神様がさせたのかもしれない。そう思うようにもなりました。

うまくいえないんですが、おかよさんの体験を含め「泣いて笑って」で出会った皆さんに打ち明けることで私は少し前を向くことができて本当によかったと思っています。
チビタロウのこと、私は絶対忘れない。今でもおなかがグルグルするとチビタロウがいるんじゃないかと思っておなかに手を当てたりします。誰もいないんですけどね。
チビタロウを抱いてあげればよかった。今でも後悔してます。時々私とおなかの中のチビタロウ、夫の三人で過ごした病室では無事出産された患者さんが入院されます。そこの部屋へ行くと汗が出て胸が苦しくなります。
私は今では誰にも自分の妊娠してた話をしません。夫にも。今でも泣いてしまうから・・・
たぶんいつまでたってもかわらないんだと思います。
それでもいいっておかよさんが言ってくれたから、、、、
今回体験談を書くことで秘めてた思いをまた掘り返していっぱい泣きました。書くことで少し整理ができました。こんな機会を与えてもっらって感謝しています。
長くなってすみません。

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人工死産体験談<ケース6>

空6


【ケース6】 2005年7月31日  

流産・死産を経験されている方が多い中、私の経験がおかよさんとほとんど同じなのでビックリしました。今こうしてパソコンに向かってますが、何から言っていいのかわかりません。私は第2子を人工死産してしまいました。上の子は何事もなく妊娠出産していたので、まさかこんな経験をするなんて夢にも思ってませんでした。
おかよさん・・・妊娠出産って何なんでしょうね。経過が良ければ家事も仕事もスポーツもでき普通の生活ができるのに、経過が悪いと、絶対安静の入院生活、最悪「死」となり・・・。自分自身も人生もが変わりますよね。

私は長女の出産後、3回の初期流産、その後不育症と診断され大学病院でいろいろな検査をしたけれど決定的な原因がなく終わり、そして4回目の妊娠。それが一番つらい人工死産となりました。
妊娠反応が出たと同時期に高熱が出て入院しました。今思うとそれが感染症の始まりというか症状が出ていたのかな?と思います。その初期 の入院中に茶褐色のおりものが出て「まただめなのか・・・」と思ったが、ポリープによる出血だから心配ないとの事でした。でも感染症を引き起こす場合もあるからとポリープを摘出。そして退院。その後しばらくは経過が良かったのに、安定期を目前に軽い腹痛。
すぐ病院に行きましたが「経産婦はお腹が張りやすいんだよ、赤ちゃんは順調」て言われ安心して帰ったのに二日後に夜中陣痛のような痛み。でも経産婦特有なのかと信じ一晩我慢。でも二日後にドロッと真っ白いおりものが大量に出てその後鮮血な出血。ちゃんと早めに病院行ったのに何でこんな事になるの?と悔しかったけどしかたがない。子宮口が少し開いているとの事で即入院となりました。

痛みはなくなったものの出血が止まらない。24時間点滴つけて安静。入院し一ヶ月過ぎた頃、赤ちゃんの成長がよくなく、そして羊水が減っていってしまい、おかよさんの赤ちゃんと同じように赤ちゃんが狭い子宮できゅうきゅうになってきてしまい・・・先生から説明された内容もまったくおかよさんと同じ内容でした。だから私の思いもまったく一緒です。トクトク・・と心拍聞こえるのに、確かに今私のお腹の中で赤ちゃんが生きているのに、なんであきらめなくてはならないの?それって赤ちゃんの意思も聞けず殺しちゃうって事?なんで我が子を殺しちゃうの?もう現実なのか夢なのかなんだかわからない状態で・・・すごく悩みました。
このまま絶対安静でいれば・・もう少し週数が進めば未熟児でも生きられるんじゃないか・・肺に障害を持ってもわ我が子には変わりない・・すごくすごく悩みました。でも結果、あきらめることにしたけれど、それが正しい選択だったのかまた悩み、もうつらい日々でした。
昨日まで、安静でシャワーもだめだったのに、今日からシャワーの許しが出て、点滴がはずされ、回診では心音チェックもしてもらえない・・手術日までそんな日々を過ごし、私は毎日葛藤し、そして手術日。私の場合かなりの前置胎盤だったため出血がひどく、最後は掻爬になってしまいました。陣痛の時は意識があったのでひたすら歯をくいしばって耐えていましたが、掻爬の麻酔をかけられてから私はかなり暴れて叫んでいたらしいです。
もうろうと意識が戻った時には泣いていて自分では時間の感覚がなかったが2時間ぐらい分娩室で泣いていたそうです。最後掻爬になってしまったので、赤ちゃんは見せれる状態じゃなかったと先生が言ってました。でもたぶん男の子かな・・と言ってました。
確かにさっきまで赤ちゃんを産むため、陣痛とも闘い分娩室にいたはずなのになんで赤ちゃんがいないの?と現実を受け止める事ができず、頭がおかしくなりそうでした。でも私には長女がいたので、その長女の存在が私を励まし勇気づけてくれ、だからこうして立ち直れたのかもしれません。もう二度とこんなつらい経験はしたくない・・もう赤ちゃんはあきらめよう。でも母性本能ってあるんですよね・・。抱けなかった赤ちゃんを抱きしめたい、赤ちゃんの誕生を楽しみにしている長女をお姉ちゃんにさせてあげたい・・あきらめたはずなのに、やっぱりあきらめきれない。そして3年後私は今二人の子供のママになりました。引っ越しもしたのであきらかに前とは違う。今度こそ最後、もう一度だけがんばろう・・とパパと話し合い、そして妊娠。
今までの流産・死産の経験が嘘のように今回の妊娠は順調で、出血も腹痛もなく、8ヶ月まで立ち仕事もし、元気な妊婦生活を送り、予定日ビンゴに無事男の子を出産しました。今はすくすく元気に成長し4ヶ月になりました。私の経験談が今つらい思いをしてる人に少しでも勇気を与えられたら・・と思い綴りました。希望を捨てないでほしいです。
今日おかよさんに出会うことができ本当に良かったです。約2ヶ月間の入院生活は季節も変わりとても長くつらかった。入院した日、まさか空っぽになったお腹で赤ちゃんがいなくて家に戻ってくるとは想像もつかなかったけど、きっとこのつらい経験は意味のある事なんでしょうね・・。
赤ちゃんのへその緒をくださったので、毎日手をあわせ話しかけ、家族で大切にしています。
長くなってしまいましたが読んでくだっさてありがとうございました。 
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人工死産体験談<ケース5>

空5


【ケース5】2005年6月12日  

私は 18週でお腹の子を空に返してしまいました。1999年6月30日のことです。
検診時のエコーで 赤ちゃんに腫瘍ができていることがわかったのです。
悪性か良性かもわからない、お腹の中で死んでしまう確率も高く、産まれても(産むなら帝王切開)即手術で その手術に耐えられるかもわからない、障害があるかも知れない、その障害の重さも分からない、何もかも分からないづくしでした。
毎日毎日毎日!泣いて、色んな専門機関と思われるところへ電話したり 図書館で病気のことを調べたりしましたが 結局何も分からないままで・・・。
私達夫婦で 最終的に決定したのは 産まない選択でした。
でも おかよさんと同じで その時の私にも考えて選択するという気力がありませんでした。
そのことを今でも 悔やみます。
私が自分で 考えて考えて結論を出していたら 違う選択をしていた?
夫が「どんな障害を持った子でも、出来る限りのことをしてやろう、産もう」と言ってくれていたら 産んでいた?どうなんだろう・・・。

息子は静かに産まれてきました。
夫は 「出産」には間に合いませんでしたが、仕事着のまま急いで来てくれました。
2人で赤ちゃんに会いました。
小さな でも 髪の毛も眉毛も爪もオチンチンもある 息子でした。
対面の時には 看護婦さんと先生の奥さんが 白い箱に赤ちゃんを寝かせて手を組ませて、白い沢山のお花で囲んでくれていたので、箱から出して抱かなかったのですが、そのことは後悔しています。
どうして抱きしめてあげなかったんだろう。
ほおずりしたり、キスしたりしてあげなかったんだろう。
写真を撮ることも添い寝することも してはいけないんだと 漠然と思っていたのです。
もっと 主張すればよかった。

あんなに小さな体で大きな病気を持っていて、守ってもらいたい時に私達は小さな命を空に返すという結論を出した。
それを息子は どんな思いで聞いていたんだろう。
お腹の中で過ごす最後の夜は どんな思いで私のお腹を蹴っていたんだろう。
今でも気が狂いそうになります。

息子を「出産」した日の夜 病院に泊まってくれた夫の夢に 息子が出てきました。
「パパ、ママ ありがとう」って笑っていたそうです。

今、我が家には2才の息子、3ヶ月の娘が居ます。毎日育児に忙殺されていますが、2人をかわいいと思う時、必ず空にいる息子への愛しさを思います。
号泣する日は 時間が経つにつれて 少なくなりましたが、あの子をかわいいと思う気持ちは一生なくならないでしょう。
6年経ちますが、あの子への手紙をノートに書いています。

流産で赤ちゃんを亡くした方のHPは沢山ありますが自らの決定で赤ちゃんを空へ逝かせてしまった方のHPは今まで見たことなかったので、とても嬉しかったのです。

おかよさんの「私の死産体験に関するお部屋」に書いてあることは 私にとって自分の気持ちそのもの、本当に同じことを感じました。
だから、本当に本当にありがとうございました。
興奮のため 支離滅裂な文章でごめんなさい。
30日には 家族4人で お墓参りに行きます。

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人工死産体験談<ケース4>

空4


【ケース4】 2005年6月2日  

私も20週で破水してしまい人工死産という形になっ てし まいました。

只今小学2年生の女の子と6月1日で5才になった男の子がいます。下 の子 が3才をすぎた頃(一昨年)妊娠し、喜びも束の間3ヶ月に入る前に稽留流産で一人 亡く しました。その頃夫の姉が癌に侵され、亡くなる直前だったということもありバタバタしていたので仕方がないという思いも有りました。
姉の一周忌も終え、去年の暮れにまた妊娠が判明し、今度こそはという思いでしたが、また3ヶ月に入る前に稽留流産で亡くしてしまいました。
2度も続けての出来事で「もう子供が二人いるから諦めよう」という気持ちがありましたがやっぱり諦めきれなくて今年また妊娠しました。 しかし、妊娠に気付いたのがいつもとは違う生理。生理が遅れていたのでもしかしてという思いで期待していたら出血。生理にしてはなにか違うと思って受診してみると妊娠していました。

前回の2回の流産のこともあるし、いきなり出血からスタートということもあって半分諦めた様な気持ちで妊娠の実感がなかなか湧きませんでした。
出血はずっと続いていましたが、処方された薬と出血の多い時には入院して安静を心掛け、なんとか安定期といわれる5ヶ月を迎える事ができました。三人目ということもあり、5ヶ月を過ぎると胎動も感じ、お腹も膨らみ始めて妊婦という実感と喜び を 家族みんなで感じて幸せな日々でした。

あと二日で20週に入るという日の夜中、突然 破水してしまいました。慌てて主人と子供を起こし、間違いであって欲しいという気持ちを胸に病院に駆け込んで調べてもらいましたが、やはり破水でした。
昨日退院したばかりなのでその後の経過はまだ語るのがつらいので控えさせて頂きますが、 前回 までの2回の流産とは違ってやはり陣痛を起こしてお腹を痛めて産んだだけ気持ちの整理をつけるのに時間がかかってしまうと思います。私は先生に「止めた方がいい」と言われてわが子の姿を見れませんでしたが、立ち会ってくれた主人はわが子の姿を看取ってくれて相当なショックがあったようでした。
出血や破水の原因ははっきり解っていないし、三度続けての流産ですので次も自信はありませんが、出来る事なら体調を整えてからもう一度赤ちゃんを授かりたいと思っています。上の子二人がとても楽しみにしてくれていたので・・・。 
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人工死産体験談<ケース3>

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【ケース3】  2005年6月22日  

私には中2と小6になる娘がいます。
2005年4月の18日におかよさんと同じく感染症による前期破水にて愛しい我が子をお空に還しました。
妊娠15週と6日のことでした。

妊娠に気付いた時は仕事を 変わったばかりでしたし、上の子とも年が離れていたのでびっくりしましたが、 次第に嬉しさが増し、出産を心待ちにしていました。
4月の初め頃から出血したり お腹の張りもあり病院に行ったのですが、何も異常は無いとの事で薬だけ飲んで なるべく安静にしていました。
それでも不安になる時があり診察してもらったり していたのですが異常なし。心配のし過ぎと言われ、あまり不安になると赤ちゃ んにも良くないと思おうとしていました。
仕事も事務が私1人なのでなかなか休めずにいました。 4月の17日朝方突然破水してすぐ病院へ行きました。羊水は殆ど残っておらず、先 生に赤ちゃんは?と尋ねると、厳しいけど子宮を縛って羊水が増えてくれば助か るかも。ただ、ここでは出来ないのでと救急車で大きな病院へ行きました。とにかく自分がしっかりしていないとと思い、パニックになって赤ちゃんが出てこな いように、きっと助かる、と思っていたのですが、診断の結果無理だという事で した。羊水が無いところにいる我が子が苦しいのではないかとかわいそうで、私 があなたに最初で最後してあげれるのはちゃんと産んであげる事ではないかと思 い出産することを決めました。
あれから2ヶ月が経ちますが、まだまだ、心が安定 していません。 主人も2ヶ月近くいてくれましたが、また出張に行ってしまいました。

子供がゆっ くりで良いよ。泣きたい時は泣いて良いよ。と、心配そうに言ってくれます。仕事も復帰してます。毎日殆どあの子の事ばかり考えています。早く元気にならないと、と思うのですが。その反面、赤ちゃんがやっぱり欲しいと思う自分もいま す。でも、こんな私が欲しがっていいのかと思う自分もいます。 毎日後悔ばかりです。もっと早く病院に行けばよかった、仕事を休めばよかった 、と。
きっと、 こんなに悲しんでいる私を見てあの子も悲しんでいると思うと、元気にならなく てはと自分に言い聞かせています。今言えるのは、あの子が私を選んで私のお腹 に来てくれた事をとても幸せに思っているということ、二人の娘と主人がいてく れて本当に良かったという事です。

もし、許されるなら、姿・形が違ってもあの子をもう一度この手に抱きたいと思っています。

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