出生前診断の告知のあり方と自己決定の支援について考える【泣いて笑ってBlog】

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人工死産体験談<ケース11>

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2006/2/27人工死産をしました。
ことの始まりは2004年5月から9月までの間勤めた会社で、私には持病により障害があるということを隠して仕事をしていたところ、仕事のミスから障害がばれてしまい、それが元で胃潰瘍になったことです。
その胃潰瘍は大きく入院を勧められましたがすぐ治るものだと過信し、飲み薬で経過をみていましたが一年かけても完治せず、11月、妊娠に気がつきました。
胃潰瘍を見てくれていた町医者は、持病もあるし胃潰瘍もまだ完治していないしそのうえ妊娠となると手に負えないから持病で通っている大学病院に委ねる。と言われ、薬も安全なものにして帰りました。


産科初診のときから毎回超音波で赤ちゃんを見ると、うれしくて涙があふれました。
そして12/26吐き気がして、つわりが9週目にしてきたかと思い、吐いたものは血でした。
最初は血だなんて思いませんでした。だって、黒かったから。
そのまま倒れこんでしまい、翌朝救急車で近くの救急病院へ。妊婦につける薬なしといわれ、そのまま実家へ。その晩も2回吐血しました。
翌朝、タクシーで持病でかかっている大学病院へ。重症性悪阻といわれ、入院。そしてまた、吐血。周りがにわかに騒がしくなり、胃カメラ。私はそのときのことは意識が朦朧としてよく覚えていません。その1週間後また吐血。年末年始ということもあり、そのまま1ヶ月絶飲食。輸血と、点滴と、胃薬のみの生活。
毎晩、また血を吐くんじゃないかという恐怖と、誰もいない個室の不安と、寂しさと、なにより食べて赤ちゃんに栄養をあげられない悔しさで泣いて、睡眠薬なし(産科で出してくれていたので赤ちゃんに影響ないといわれました)では眠れませんでした。そして、ようやく食べれるようになり、胃潰瘍だけならもう退院してよしとなり、持病の薬も赤ちゃんに影響の少ないものを最小限にしてそろそろ退院というとき、13週目くらいから赤ちゃんの格好が変だというのです。
首が反り返っている。
3週間ほどこまめに超音波でみていきましたが、変わらず。おかしい。そんな矢先、持病の薬が薄くて体が思うように動かず、車椅子や、人の支えがなければトイレにさえ行けない私を見て、父が赤ちゃんをあきらめろといいました。ふざけないで、私たち夫婦が結婚して10年もの間ずっと心待ちにしてきた子をなぜ今更、と、訴えました。縁を切ってでも産む、その気持ちでした。しかし、赤ちゃんの首のことが気がかりでした。主人と一緒に超音波を見ました。そして、主治医の口から「こ
れだけこまめに見てきて、今日で17週目、なのにこのままということは、致命的かもしれない。このままでは、生きて生まれてくることも生まれても長生きできないかもしれない。生まれても重い障害が残るかもしれない。よく2人で話し合って決めてください。」言葉になりませんでした。主人は「治す方法は?」とききましたが「今の段階ではなんともいえない」
都内の一等地にある有名な大学病院です。そこでも手に負えないだなんて。
そして、今、おなかの中で羊水をうまく飲めずに苦しんで、お腹をすかせていて、成長できずにいるなんて。早く決断しなければ、22週まで日がない。
これからできていく脳や中枢神経にも影響し、生まれてすぐに管をつながれ、、だれより赤ちゃんが辛い一生となってしまうなら。
決断するしかありませんでした。主人と2人で声を上げて泣きました。
そして、子宮口を開く処置。痛くて、辛くて、泣いていました。
金曜、土曜と陣痛促進剤を投与してもなかなか出てきてくれませんでした。ごめんね。ごめんね・・・・
持病の薬が効かず体中が痛くて、そのうえ喜びの待っていない陣痛。
9週目から病院にいた私は、当然母親学級にも行っていません。いきみかた、痛みの逃し方、何一つ知らないのです。なかなか開かない子宮口。最終手段、子宮に小さな風船を入れ、ふくらまし、子宮口を開く方法。それでもだめで。何時間かおきの診察で、赤ちゃんの袋をひっぱるらしく、内臓をひっぱられる感触。
分娩台の高いこと。ずっと座っていられないクッションの悪さ。何度、「もうやめて、どんな子でも産み育てるから!」言いそうになるのを我慢しました。今の時期なら、赤ちゃんはこれからも苦しまず、今も苦しまずにお空に帰れる、そう言った看護師さんの言葉を信じて。

18週3日 2/27、17:45 破水。
こんなにもたくさんの水が、と思うほどの羊水でした。そして、産道を四つんばいで出てくる感触。

17:51 死産 
男の子でした。

すぐに「じゃあ、きれいにしてきましょうね」と連れて行かれ、私は処置をするため麻酔をかけられ、気がついたら陣痛室のベッドの上でした。そこは個室になっており、隣の声は聞こえませんでした。そして、入ってきた看護師さんに「赤ちゃんは?」ときくと、「お連れしていいですか?」「はい。」そう言って連れてきてくれたのは、小さなかごに入って白いガーゼがかけてある、小さな我が子でした。「だっこしていいですか?」「いいですよ。よかったね~だっこしてくれるって!」そう言って私に手渡してくれました。小さくて、信じられないくらい冷たくなった「つよし」。涙が止まりませんでした。12週まで、順調と思われ、「強い子だから、つよし、だね」と、リハビリの先生が勝手につけた名前だけど、語呂がいいし、つよく、やさしい子になってほしいという願いをこめて。
その後看護師さんの話によると、「一見、五体満足に見えるが、首だけでなく、手は開きにくく、足は足の裏が向き合っていてまっすぐにならず、手足が月齢にしては小さく大きさもアンバランスで明らかに奇形」だったということでした。
妊娠期間が終了ということもあり、持病の薬が再開されみるみるうちに元の体に戻り、
3/4 それまで車椅子生活だったとは思えないほど自力で歩いて、退院。
3/11 火葬、そして水子供養寺へ。
4/5 お寺の合同墓地へ。
毎日泣かない日はありませんでした。そして、7/28。出産予定日だったので、7/29お参りをしてきました。

今は、まだ、妊婦さんや赤ちゃんを見ると辛い日々です。
今年で私も34歳です。もう余り時間がないのですが、持病は原因不明の難病。治らず、一生薬を飲まなければなりません。
今回は胃潰瘍で吐血したことが原因かと思うのですが、どうしても、今はまだ今度は健康な子がという自信がありません。幸い両親とは縁を切らずに済みましたが、これからも持病が治らない限り、私の妊娠は喜んではくれないでしょう。
主人はたかが10ヶ月くらい、俺が自宅でできる仕事さがしてお前のめんどうみてやるといいますが、そんなことをしたら主人の体が心配です。

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娘が私と共に生きた証



私には地上にいる3人の息子たちと
お空にいるたった1人の娘がいます。

娘が確かに私のお腹の中にいて、確かに「誕生」したことは紛れも無い事実なのに、でも何も残っていません。

臍の緒も遺灰も・・・残っていません。
臍の緒も遺灰も・・・・何も言わなくてももらえるものだと思っていました。今になって後悔しています。

だって突然にも私は娘に会いたくなるから・・・。
娘に触れたいと思ってしまうから・・・・。


唯一残っているのはエコー写真と母子手帳だけです。



けれど、本当は私の体の中に娘が生きた証が残っています。
それを知ったとき、私は心がとてもとても温かくなりました。
とても嬉しくてじんわり涙も浮かんできました。

娘が生きた証・・・それは「抗E抗体」です。

娘を妊娠21週で死産したのは1998年5月。
長男を妊娠したのが翌年の7月。
その妊婦検診の時の血液検査で私には不規則抗体である抗E抗体があることがわかったのです。
現在ヒトの赤血球には300にものぼる型抗原が解明されているそうです。
私は過去に事故や病気で輸血をした経験はありません。
ですから最初、医師からそのことを告げられても「なんのことやら、さっぱり?」でした。

血液型不適合である妊娠が新生児溶血性疾患(HDN)の原因になることが知られています。
母親と胎児の血液型が異なる場合、分娩時又は流産、中絶に伴う出血などにより胎児の血液が母親の体内に入ると、母体は胎児の赤血球に対する不規則性抗体を作ることがあるのだそうです。

この抗体を持つ母親が次の妊娠をすると、抗体は胎盤を通過して胎児に移行し、胎児の赤血球と結合して、これを破壊(溶血)するのだそうです。

私はRhのD抗原は(+)ですが、この場合、妊婦の約2.5%に不規則性抗体を検出し、その約6分の1はIgG型の抗体で胎盤を通過し、新生児溶血性疾患の原因になる可能性をもっているそうです。

そしてこのD抗原はRh式血液型の中で一番重要なのですが、今回の私のようにE/e抗原はD抗原に比べ免疫原性が低いため、通常の輸血前の検査対象にはなっていないようです。
しかし妊娠などによって不規則抗体を有する例は、わりと多くあるようです。

私の体に私以外の誰かの血液が入り込み、その血液に対する抗体を作り出してしまった。。。。
それはどう考えても・・・・「私以外の誰か」とは、娘以外には思い当たりませんでした。
困った抗体かもしれないのですが・・・
それよりも何も・・・
娘が生きた証が私の体の中に残っているという事実が、ただ嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。
この気持ち、きっと母親である女性なら・・・わかってくださるのではないでしょうか。

色々と心配もありましたが次男の時だけ私は自己血を前もって準備して、長男・三男・四男の時は特に何も準備せずに出産を無事に乗り切ることができました。

ちなみに長男の時(2000年3月生まれ)は生後1ヶ月検診時も白目がまだ黄色かったままでした。母乳で育てると多少黄疸も長引くことがあると知っていましたので、さほど心配はせずに済みました・・・。
黄疸にも色々あって、母乳による黄疸は心配しなくていいのです。
次男(2001年11月生まれ)、三男(2003年11月生まれ)の時も、黄疸は少し強かったみたいですが、退院予定日(出生5日後)には値も下がって無事に退院できました。

そして四男(2006年7月生まれ)の時は、生後46時間で高ビリルビン血症と診断され(Rh不適合による溶血)光線治療を受けました。光線を最初は上・左の2面から照射されていましたが、それでもビリルビンの検査結果が思わしくなく3面に増やされたりしました。様子を見ながら2面に減らされ1面に減らされ、そして光線が外され・・・合計11日間の入院になりました。
私は上の子どもたちのこともあったので、産後5日で退院し、3時間毎に搾乳して冷凍母乳をせっせと作り、毎日母乳をNICUまで届けに行きました。時間が許せば直接母乳を与えて・・・本当にこのわずかな時間が愛しくて切なくてたまりませんでした。そばにいて、ずっと見守っていたいのにそれができない。NICUのスタッフが24時間看護してくださっているのはわかってはいても、泣いていないかな、オムツ汚れてないかな、こんな思いさせてごめんね、といつもいつも四男のことを想っていました。そして想うだけで胸が張りおっぱいが滲み出てきました。



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人工死産体験談<ケース10>

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私が36歳になる直前の20059月、第2子の妊娠が判りました。6歳の息子と「お兄ちゃんになれるね」と喜び、とにかく安静に務めました。


ようやくつわりが楽になった1月。安定期を迎え、胎動を感じるようになり、おなかの膨らみと共に愛おしい赤ちゃんの存在を感じ始めたのに・・・2006131日、娘は23週1日で、天使になりました。


 


1月上旬:明け方に腹緊で目覚める日が1週間に2回も。


1時間ほど痛みは治まらず、「息子の時は、こんなことなかったのに・・」不安な思いを抱き始めました。


 


1月16日(21w0d)予約した妊婦検診まで1wあったけれど、1日に10回弱の腹緊が数日続いたため受診。


エコーでは、子宮がそら豆のようにいびつに凹んでおり、医師は「これじゃ痛いはずだよ」と。


子宮頚管・子宮口は異常ないため、張り止めの薬をもらい帰宅。


安静に1週間過ごしましたが、張りはさほど変わらず、不安が増す日々でした。

1月23日(22w0d)妊婦検診。張りはあるものの「成長した赤ちゃんに会える」と思いエコーを見つめました。赤ちゃんはお祈りをするように手を胸の前に。心臓の動きが見え、ホッとする私。


そして・・頭臀長で赤ちゃんの大きさを測ると、画面には19w・・「あれ?小さい・・」と思った直後、先生が「うん・・・ちょっと・・気になることが・・・」


成長が遅い、脳室の拡大と腹水貯留、手の動き・・等の心配が見られる。即日入院して、張りを抑えながら娘の様子を見ましょう、と。


 


「脳の異常?・・腹水?・・」、軽い心配で済まされることではないと、素人の私でも解りました。


検診の日は月曜でしたが、偶然が重なり、平日の昼間なのに夫も息子も揃っていました。


急な入院で動揺していたけれど、夫や息子の助けを借りながら準備をし、車を運転してもらい、家族で病院へ行くことができました。
もしかしたら、お腹の娘が、家族が揃っていた「その日」を、命の選択への始まりとして選んだのかも知れません。


入院の準備をして夕方病院へ。すぐ点滴でウテメリン投与を開始。しかし張りは治まらず、薬の濃度を上げても張りは増す一方。トイレに行くのも寝返りも、どんなに静かに身体を動かしても、お腹はキュ~ッと硬くなります。背中一面が張って呼吸をするのも苦しい・・


それでも「張りが治まれば、赤ちゃんと退院できる」と信じて、眠れぬ夜を2日過ごしました。



1月25日(22w2d)9時:張りが治まらないので、外来の診察開始前に再度エコーを見てもらいました。


2日前の診断に加え、小脳の異常・口蓋裂・羊水過多(胎児の消化器系の障害の可能性)・・・等も見られると。


「それで・・赤ちゃんは生きられるんですか?」


そんな言葉を、口にしなくてはならないなんて・・けれど、聞かなくては。


私の大切な赤ちゃんの、一番大切なことだもの・・


「恐らく赤ちゃんはお母さんの体外では生きられないでしょう。セカンドオピニオンとして○○病院への紹介状を書くので、診ていただいては」・・と。


全身の血が凍るような感覚で、看護士さんに支えられながら病室に戻り、泣きながら夫に電話しました。


12時:夫と、新生児・小児病院を併設している県内でも大きな病院へ。


エコーでは変わらず元気に動く赤ちゃんが見えました。しかし・・結果は同じ。「染色体異常、それも出生後に延命措置をするか否かの選択をする、18トリソミーの可能性が高い。このまま妊娠を継続しても40週はもたないでしょう。羊水が多いので、破水が早いかも」・・進む道が次々に断たれるような診断でした。


 


セカンドオピニオンを受けた医師は、以前大学病院で新生児医療を専門にされていて、「異常の原因・病名を調べないうちに、命をどうするか決めることはできないでしょう」と言いました。


さらに「22週を越えているから、赤ちゃんの状態が深刻であれ、妊娠を継続するしかないのだから、原因を調べる検査をしながら、ゆっくり考えましょう」と。


 


深刻な状況であることは覚悟していました。「もしかしたら人工的に出産することを進められるかも」とも思っていました。しかし、22週を越えていることで、人工的な出産はできない、選択の余地はないことを初めて知り愕然としました。


“通院しながら、ゆっくり考える”・・・果たして、それが喜ばしいことなのか・・・大きな総合病院の産婦人科です。


私が時折襲われる腹緊に耐えながら、「赤ちゃんが生きられない」と言われている部屋の廊下で、陣痛の波を逃している妊婦さん、1ヶ月検診を待つ大勢の赤ちゃんとお母さん・・・


 


回復の期待ができないのに検査を続けてどうなるの?・・できることなら思考を止めてしまいたい・・けれど考えなくては。自分が今できることは、医師の話をしっかり聞いて考えること・・・一番苦しいのは愛しい赤ちゃん。私は母親、置かれた状況にしっかり向き合わなくては。


冷静に考えたくても、情報量が多すぎて混乱する頭では、セカンドオピニオンの医師が促す検査への了解はできませんでした。


返事を急ぐ必要はないということで、ひとまず翌日の午後に再度相談の予約をとり、入院した病院へ戻りました。


 


17時半:病院に戻り主治医に検査結果を話し、方針を伺いました。


主治医は「妊娠を継続しても回復の期待は持てない。それが解っていてリスクを伴う検査を行う意味は見出せない。赤ちゃんの病気が、この段階で見つかったということを、赤ちゃんからのサインだとご両親が受け止めてあげることが大切だと思います」と。


そして、やはり「22週を越えているので、薬で陣痛を起こすことはできません。だから、自然に破水を待つか、赤ちゃんがお腹の中で命を終えるのを待つか・・」そう言われました。


 


22週を越えている=“妊娠を継続”するしかない。どんなに私が苦しくても痛くても、赤ちゃんが生きられるなら耐えられます。しかし、出産まで安静にしても、赤ちゃんは生きられない。


そう解っていながら、検査をする?仮に検査をしなくても、赤ちゃんが命を終えるのを待ちながら生活をするなんて・・どんな精神状態になってしまうか・・


動揺する私に、主治医は「治療的早産という判断で、自然に陣痛を起こす処置があります」と話しました。


22週を越えている」けれど、陣痛を起こす・・何だか頭は混乱するばかり。


どうしたらいいんだろう・・考える時間をもらうため、決断はせずに、病室へ戻りました。


 


命の選択の決断はしませんでしたが、この日にウテメリンの点滴を止めました。


“娘の運命を受け入れなくてはならないなら、自然に任せよう”という思いでした。


外出で病院にいる間も、子宮が収縮する痛みと、羊水過多で内側から破裂しそうな痛みとでカチカチだったお腹。医師も私も「点滴を止めれば自然に破水するのでは」と予想していました。


しかし、不思議なことに・・・張らなくなったのです。


娘の病状を受け入れつつあった私。腹緊は、娘が“病気に気付いてほしい”と、必死で送っていたサインだったのかも知れません。その日、本当に久しぶりに痛みがなく、静かに眠れました。


 


1月26日(223d)午後からセカンドオピニオンの医師と面談。


「治療的早産」を促す主治医の方針を伝えました。しかし医師は対極の、「原因を調べる検査をして、“もし”赤ちゃんが生きて出産できたなら、治療をしよう」という方針。しかし、生きて産まれる保証はありません。また「脳の異常などを見た限り、通常の生活は送れない」と言われていました。


 


医師は「私と主治医の先生の方針があまりに違いすぎるから、ご両親も戸惑うでしょう。それでは気の毒だから、県外の病院にも行ってみては?」と勧めてくれました。


しかし、二つの病院の4人の医師が、娘について異なった診断をすることはなかった、他の病院で診断を受け、検査を続けたところで状態は好転するのか?羊水過多は赤ちゃんが羊水を飲めない消化器の異常がみられる、今、羊水を飲めなくて苦しんでいるかもしれないのに・・・


もし生きて産まれたとしても、産声をあげることもできないまま、人工呼吸器やたくさんの管を刺され、その姿を見守る覚悟ができるだろうか。この子は、そこまでされても“生きたい”と願うだろうか、“そうして欲しい”と願うだろうか・・。そして、手を尽くした後、「延命させるかどうか」を決める時に、また私たちは絶望の淵に立たされる・・


 


医師は「何度でもご両親の納得いくまでお話しする時間をとるし、他の病院に行っても良し。どちらの医師の方針に添ったとしても、添わない方の医師に気遣う必要はないですから。それは主治医の先生も同じですよ」と言ってくださいました。


しかし、病院を後にした私たちの心は、娘の運命を受け入れる覚悟を決めていました。


 


入院した時にはあまり感じなかった胎動が、不思議なことに点滴を止めてからよく感じるようになっていました。妊婦検診を受け、即日入院してから“わずか”4日・・いえ、今までの人生で、こんなに重く長い4日間はありませんでした。赤ちゃんが動くことがつらい。本当なら喜びなのに、「こんなに動いているのに、生きられないなんて・・」ただただ悲しい胎動でした。


 


127日(22w4d):羊水過多のため子宮が膨張する痛みはあるものの、破水するほどのものではありません。胎動は続いており、私の心は大きく波打ちます。しかし、娘の病気のこと、パパとママが決めたこと・・赤ちゃんにできる限り話して聞かせようと務めました。


 


17時:主治医と面談。親としての務めを果たさないまま、私たちが赤ちゃんの運命を決めてしまっていいのか・・正直な気持ちを打ち明けました。主治医は温かな眼差しで「もう充分務めを果たされているじゃないですか。こんなに考えて悩んでいる、充分赤ちゃんのためになさっているじゃないですか。今、赤ちゃんが自分の病気が深刻だと知らせている、そのサインをきちんと受け止めてあげることが大事だと思います。ご両親が苦しんで考えて出した答えを、赤ちゃんはちゃんと解ってくれますよ」
涙が溢れて言葉が出ませんでした。やっとの思いで「神様に・・元気な身体にしてもらいます」・・そう主治医に告げました。


 


今後の処置としてラミナリアを挿入することになりました。ではいつから・・という話で「すぐに処置を始めてしまうんだろうか」と不安になる私に、主治医は「今急にでなく、明日は土曜だから外出して、ご家族で過ごされてはどうですか。処置は夕方からにでもしましょうか」・・と、提案してくれました。


明日の夕方には赤ちゃんのお別れへの処置を始める・・外出が楽しい時間になるはずもないけれど、その提案をありがたく受け入れ、病室に戻りました。


 


 


医師の言葉によって、患者の損も得もありません。しかし、言葉は時に人を傷つけ、また人の心を救う。


私の赤ちゃんは生きられないと解った日から、医療的な用事はなくても、何人もの助産師さんや看護士さんが病室に来て、体調と心を気遣いながら、話を聞いて・・何人ものスタッフが共に涙してくれました。


悲しい現実に変わりはないけれど、その事実を受け入れる過程で、どれだけ人の温かさに触れたか。


その中でも、主治医の言葉は苦悩する親と大きな運命を背負った赤ちゃんの立場を思いやった言葉であり、これから先もずっと私たちの支えになっていくことでしょう。


 


1月28日(225d):10時~15時まで外出し、親子4人の最後の時間を過ごしました。息子が行きたがっていた公園は、動物がいてランチバイキングもあり、家族連れで賑わっています。


傍から見たら、妊婦の私と夫と息子、幸せそうに見える家族。まさかこれから私が受け入れる運命があるなんて考えもしないでしょう。


けれど、私が見るものは赤ちゃんも見えるような気がして。動物も木々の緑も空の青さも、娘に見てほしい・・景色を必死で目に焼き付けようと、涙で歪む瞳を何度もこすりました。


公園の敷地内に素敵なおもちゃを扱う店があり、指人形を買いました。


産まれる娘が遊べるように、添えてあげたくて。お店の品を見ながら涙が溢れて・・それでも、この時間は娘との大切な思い出、悲しいけれど家族で過ごせた幸せなひと時でした。


18時:出産に向けての処置としてラミナリア太6本を挿入。


突き刺さるような痛みがあり、「もしつらかったら痛み止めで座薬入れるからね」という言葉に、どんな痛みが来るか不安でしたが、少しすると痛みも引いてしまい、夜が明けました。


 


1月29日(22w6d)ラミナリア太12本挿入。 今度は腰のあたりに鈍痛が着て、少し出血もありました。


いよいよかな・・と思いながらも、陣痛も破水も起きませんでした。

1月30日(23w0d)プロスタグランディンF2aを子宮内に2回に分けて投与。


赤ちゃんの胎動は日ごとに強くなってきて、決心が揺らぎそうになります。肉体的には痛みもないけれど、精神的な限界を感じていました。「愛しい赤ちゃんを守るのが母親なのに、私がしていることは・・」心が反対方向に裂かれるようで・・。


けれど、私の不安は赤ちゃんに伝わる・・だから、ひたすら赤ちゃんに話しかけました。病気のこと、パパとママが決めたこと、私のところに来てくれてありがとう、神様に元気にしてもらおうね、ママが抱っこしてあげるからね。そして・・いっぱいいっぱい愛しているよ。涙は尽きることなく流れました。


 


こんな精神状態でありながら、不思議とこの日は夜8時頃にとても眠くなり、気付くと朝を迎えていました。私に最後の務めを果たすための体力を残そうと、娘がゆっくり休ませてくれたのかも知れません。


 


1月31日(23w1d)プロスタグランディンE2を投与。この薬は1時間ずつ間隔をあけて、16回の投与が限度。もし、これでも陣痛が来なかったら、今度は何をするんだろう?・・不安はピークに達しようとしていました。
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回目の投与(12:30)で少し陣痛が規則的になり、一時投与を止めたけれど、波が遠のき、5・6回目を投与。6回目を投与した時には16:30を過ぎていました。


分娩室の隣の陣痛室に入り3時間・・陣痛はあるものの降りてくる感覚がない、赤ちゃんが小さくて降りてこられないのです。破水もしないので、お腹は収縮と膨張で意識が遠のくほどの痛みでした。


 


19:30、分娩台に上がり、破水させる。何十回息んだか・・けれど、赤ちゃんをちゃんと天国に送ってあげるのが私の務め・・その一心で息み続け・・



1月31日2022:娘は天使になりました。27センチ、315グラム、発育遅滞のため週数にしては小さかったけれど、私にはとても大きく見えました。


身体をキレイに拭いてもらって娘の顔を見たとき、愛しくて愛しくて涙が溢れました。


「もう苦しくないね、よかった・・」涙は出ましたが、神様に元気にしてもらえる、と安堵している私もいました。


長い長い出産に立ち会ってくれた助産師さんは「いいお産でしたよ」と、また、主治医は「お疲れさま、よく頑張ったね」と声を掛けてくれました。


私は「お世話になりました。ありがとうございました・・」悲しい出産ですが、助けてくださったスタッフの皆さんには感謝の気持ちでいっぱいでした。


 


退院までの3日間、毎晩抱かせてもらい、退院前日は添い寝もしました。毛糸の帽子・マフラー・おくるみを編み、子守唄を歌い、病室から星空や明け方の空を眺めました。
退院前日、妹の誕生を楽しみにしていた6歳の息子が来ました。誕生を待ち望んでいた妹の姿を「悲しいから見ない」と言っていたにもかかわらず、最後の最後で「やっぱり見る」と。
小さな妹の顔をそっとのぞくと、「かわいい~ちいさ~い」と優しく抱っこして揺らしてくれました。


本当は娘の状態をもっと調べるべきだったのかも知れません。娘の命の火が尽きるまで、耐える強さがなかった・・そう自身を責める私もいます。


せめて原因を知りたいという気持ちで、胎盤と娘の血液を採取し、染色体検査をしたところ、医師の所見のとおり18トリソミーでした。


愛する我が子との別れは、人生で一番悲しい出来事。


溢れる悲しみと共に、命の選択をした罪の意識は、私が生きている限りずっと持ち続けるでしょう。


けれど、どう思い苦しんでも娘が還ってくるわけではないですし、後ろを振り返るばかりになってしまうので、娘が私に宿ってくれた感謝と、娘のサイン、運命を受け入れたことを第一に考えていこうと思っています。


そして、私自身の経験を踏まえて、同じ経験をされた方の心の痛みに寄り添えたら・・それが、私が神様に“生かされた意味”だと感じています。


 



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