出生前診断の告知のあり方と自己決定の支援について考える【泣いて笑ってBlog】

メインサイト http://www15.ocn.ne.jp/~nikomama/

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

別窓 | スポンサー広告
∧top | under∨

人工死産体験談<ケース18>

空5


第三子を授かる数ヶ月前から・・・私は多大なストレスにより精神的に弱っていました。そんな時・・・赤ちゃんを授かったことを知り、「また兄弟が増えるのに、こんな母さんではいけない」と思うようになり、いつしかお腹の子供が私の頑張る源になっていました。次の子が生まれたらどんな風になるかな?、今度は妹かな弟かな?次の出産に向けて用意する物はないかな?など新しい家族が増えることを思い描きながら色々な事を考えていると、自然と精神的にも安らいでいました。しかし、回復していた私の精神状態を悪化させるショックな出来事が起こりました。

【18週3日】
家族全員で自宅から1時間ほどかかる病院へ向かいました。前回の健診は15週と5日目で、その時は全く異常もありませんでした。1ヶ月ごとの健診だったのですが、なぜか今回は早めに健診に行くことになりました。(もしかしたら、この時赤ちゃんがママとパパに異常を早く報せようとしていてくれたのかもしれません・・・。)
周辺の施設でパパが子供達を遊ばせてくれることになり、子供達にはまだ赤ちゃんがいることは教えていなかったので「ママはお腹が痛いから病院にいってくるね」と言い残し、一人で病院に行きました。
お医者さんや看護師さんといつものように楽しく会話をし、いつも通りの健診でした。
エコーの時、穏やかだった先生の顔が一変して曇り始めました。やけにいつもよりもエコーの時間が長いような気がするなと思っていると「旦那さんはすぐ来てくれることはできるかな?」と、パパを交えて説明をしたいと言われました。すぐに携帯に連絡し、パパが病院に来てくれることになったのですが、すごく心細くて、すぐにパパに来てほしい気持ちでいっぱいでした。パパを待っている間に、先生からもう一度赤ちゃんの様子をみたいのでエコーで再度確認してみようと言われたので、すぐに診察室に入りました。その時には、もう診察時間も終わり、患者さんは誰もいなくなっていました。先ほどと同様にとても時間をかけてエコーで赤ちゃんの様子をみてくれました。その間、心の中で「頑張って」と何度も赤ちゃんに語りかけていました。みんなが到着したので、家族全員で診察室に呼ばれ、エコー写真を見ながら先生から説明を受けました。

先生からは・・・羊水過少、そして『多嚢胞腎 』という診断をされました。
羊水がとても少なく、赤ちゃんの周りにほんの少しあるだけなんです。膀胱もエコーで確認することができません。羊水が少ないので肺も未発達になり、産まれても肺呼吸ができずすぐに亡くなってしまう可能性が高いです。現実的なことを考えると助かる確立は、ほぼ0%です・・・。このままお腹の中にいたとしても、残念ながら臨月まで生きていられるかわかりません。羊水が少ないと外部からの圧迫にも弱いため、手足に奇形がでてしまうこともあります。ご両親が悪いわけではなく、たまたまなのです・・・。このような場合、中絶を選ぶことが多いです。将来的なことや現在いるお子さんのこと等、様々な事を考慮して中絶という道を選んだとしても、誰もあなた達夫婦を責めることはないと思います。母体にも負担がかかってきますから、早い段階でどうするかを決めた方がいいと思います。

先生は本を見せながら、私達に説明をしてくれていました。先生は一つ一つ言葉を選んでオブラートに包んで話していたのですが、結果的に中絶をすすめていることがわかりました。
厳しい現実を突きつけられ、私は病院にいる間、涙が止まることはありませんでした。そんな私を見て、上の子供は「お腹痛いの?病院だから大丈夫だよ」と声をかけてくれました。精一杯励ましてくれている姿に更に涙がこぼれ落ちました。家に帰ってからも何も手につかず子供達を寝かしつけた後、一人で泣き続けました・・・。頭が真っ白で何も考えられず、眠ることもできませんでした。
そんな私の側でパパは一人で頑張ってくれていました・・・。パパは医療に携わる仕事をしているため、その病気について名前は耳にしたことはあったそうですが、「詳しいことはわからないから、パソコンを使って色々調べてみるから。」と、夜遅くまで様々な事を調べてくれました。また、パパの知人が様々な産婦人科の情報等を調べてくれたり、子供の面倒もみてくれていました。私がこんな状態でなにもできないので、ほとんどのことをパパがカバーしてくれました。病気について調べた事を私に伝えてくれ、その後パパの意見を話してくれました。

パパは・・・
先生から「旦那さんを呼んで・・・」と言われた時点で、何か異常があることはわかっていたけれど、“障害を持っている”という赤ちゃんであれば生きることができるのだから産んで一緒に育てていこうと言うと思うよ。けど・・・うちの赤ちゃんは腎臓と膀胱という大事な臓器がないんだよ・・・生きて産まれてきたとしても数日しか生きられないし、沢山の管を通されて痛い思いをしなくちゃならないんだよ・・・。俺は赤ちゃんに苦しい思いをさせたくないんだ。産まれてきたとしても、肺が機能しないかもしれない。それにお腹の中で赤ちゃんが亡くなったり、何か異常があればママの命も危険にさらされることだってあり得るんだよ?もしママが亡くなったら今残された二人の子供達はどうするの??きっと、赤ちゃんはママ想いの優しい子だと思うんだ。早い時点で自分の異常を教えてくれ、自分の命を引き替えにママの命を助けようとしてくれたんだから・・・。俺はママの命を優先してほしい・・・。

パパの中では宣告を受けた当日に気持ちは決まっていたようです。きっとパパもつらい決断であったと思います。後から考えれば、赤ちゃんがいかに苦しまないよう、そして私の心身を一番に気遣ってくれていた結果だったのだろうと思います。私の両親にも電話で現状を伝えましたが、両親もパパと同じ答えでした。

私は何も考えられず、自分があの時こうしてれば・・・こんなにストレスを感じていなければ・・・などと何かにつけて自分を責め、ずっと泣き続けました。いくら先生に誰が悪いわけでもないんだよと言われても、私が悪かったから・・・としか考えられませんでした。私の選択によってお腹の赤ちゃんの命が決まってしまうということ、今生きている命を決断によってお空へ還してしまうこと、せっかく望んで授かった子供をここで諦めてしまって本当にいいのだろうか・・・ 色々な事が頭の中を駆けめぐりました。決断を迫られていたため、こんなにすぐに答えを出して本当にいいのだろうか、次の健診には大丈夫になっているんじゃないかと思ったりすることもありました。でも、どう足掻いても現実は何も変わらない・・・
私はもう一度パパと話し合い、人工死産を行うという結果をだしました。人工死産を決断する時にはすごく迷いました。本当はどうにか生かしてあげたい気持ちでいっぱいでしたが、私一人がこの子をこのまま育てたいと言ってもパパや両親や子供達など沢山の人に迷惑をかけ、その間自分の精神状態は普通ではいられない事など、これからのことを考えると、私はこの選択肢を選ぶしかありませんでした。
人工死産を選択し、すぐに処置を行う病院に連絡をいれました。 健診を受けていた病院でも処置が行えるそうですが、入院中子供達を預かってくれる人がいないため私の実家近くの病院に行くことにしました。現状を説明すると受け入れてくれることになり、処置の方法や処置後の話を聞きました。

【18週6日】
紹介状を書いてもらいに病院に行きました。私の担当の先生は本当であれば今日は休みだったのですが、私たちに再度詳しい説明をしてくれました。
処置をお願いする病院にも電話連絡をしてくれました。最後まで本当に親身になって対応をしてくれました。


【19週1日】・・・入院一日目
子供達には「お腹が痛いから入院してくるから、言うことをよくきいて待っててね。すぐに帰ってくるから」と言い残し、母に子供達に任せ、紹介状を持ってパパと一緒に病院へ行きました。
新しい病院でもエコーで赤ちゃんの様子を見ましたが、やはり同じ診断結果でした。先生にも「このような場合、ほとんどの人はどのような結論を出すのでしょう?」と質問しました。先生は「ほとんどの場合、中絶を選びます。赤ちゃんがお腹の中で亡くなってしまえばお腹の中から出てき辛くなってきてしまうので色々な危険性も出てきます・・・」と、私の様々な質問にも丁寧に優しく答えてくれました。
覚悟を決めてきていたので、入院の手続きをすぐに行いました。入院してすぐに子宮の入り口を広げる器具を入れましたが、異物感と腹痛がひどく、少量の出血があったのですぐにベッドに横になりました。夕方になり、また再度器具を入れ直しました。入れる時よりも抜くときの方が痛くてたまりませんでした・・・。でも「赤ちゃんは羊水が少ないお腹の中で窮屈な思いをしてもっと辛いし苦しいんだ、こんな事で弱音はいていてはいけない」と言い聞かせ、痛みを我慢しました。パパは面会時間はずっと側にいてくれました。喜びの空間の中に一人だけこんな暗い気持ちの私がいる・・・。なんともいえない孤独感でした。そして生きられない赤ちゃんを産む恐怖心などが込み上げてきました。こんな状態では大部屋にはいられないと思い、個室を選びました。近くの部屋からは赤ちゃんの声やお見舞いに来ている人たちのにぎやかな声・・・。赤ちゃんとの別れが刻々と近づいてきているのだと考えると、普通の状態ではいられませんでした。
どうしてここにいなくてはならないんだろう、本当なら数ヶ月後には周りのお母さん達と同じような幸福な時間を迎えられたのに・・・。そう思うと涙が止まりませんでした。
赤ちゃんと一緒にいられるのはあとどれくらいなんだろう・・・。一緒にいられる時間は短いのだから、最後に赤ちゃんのためにしてあげられることは何かないかを考えました。急にお別れをすることになったので時間がなくてしてあげられることは限られているけど、自分が出来ることはと・・・思いついたのは、おくるみでした。ママの手編みのおくるみに包まれたまま、赤ちゃんをお空に還してあげようと、入院したその日から白い毛糸で編み始めました。一目一目想いを込めながら編み続けました。編み物をしている時は穏やかな気持ちになり、涙も出てきませんでした。全然眠れなかったので夜遅くまでおくるみを編み続けました。

【19週2日】・・・入院2日目
朝の健診があったので、診察室に向かいました。周りには妊婦さんやお産を終えたお母さん達が数人椅子に座って順番を待っていました。一人だけ暗い顔でお腹のふくらんでいない私を不思議そうに見ている方も中にはいました。その視線は心に痛く突き刺さり、早く自分の病室に行きたいとずっと思い続けていました。
今日から促進剤を使って陣痛をおこさせる処置を行うことになりました。昼過ぎには痛みがましてきましたが、時間が経っても子宮は1㎝ほどしか開きません。頭の大きさは4㎝ほどあるので、まだまだ開きが弱い状態でした。しかし強い痛みは続いているので、パパには病院に残ってもらうことになりました。パパが側にいるだけでとても心強く、夜中にお腹が痛くて辛い時でもパパは体をさすってくれ、ずっと励まし続けてくれました。

【19週3日】・・・入院3日目
朝方になっても開き具合は変わらなかったので、もう一度器具を入れて、子宮の入り口を開く処置を再び行うことになりました。予定であれば、入院して二日目に赤ちゃんを出産する予定でしたが、私の場合子宮の入り口が硬かったので入院が延び、赤ちゃんと一緒にいられる時間は少し増えましたが、複雑な心境でした。
朝の健診時に、再度器具を入れました。病院側が配慮してくれて、健診時に他の妊婦さん達とは会わないようになりました。一日目より痛みはなく、ずっとベッドで横になっていました。おくるみもなんとか編み上がり、2枚のおくるみが出来ました。赤ちゃんの大きさがハッキリと分からないので大小の2サイズを編み上げました。先生は「明日には産まれてくると思うから一緒に頑張ろう」と言ってくれました。パパが立ち会ってくれることができるように看護師さんにお願いしたのですが・・・「赤ちゃんが産まれてくる時にキレイな状態で産まれてくるか分からないし、何があるかわからないから許可できません」と言われ、ずっとパパと一緒に頑張り続けたいと思っていたのでショックで落ち込んでしまいました。
「普通の中絶の場合、夜遅くまで付き添う事は許されていないんです。こちらも様々な特別配慮をしていることを分かって下さい」と言われ、涙が溢れてきました。ワガママばかり言っていたことに反省し、「ワガママばかり言ってすみませんでした・・・」と看護師さんに謝りました。
「色々不安になるのは分かるし、辛いのもよくわかる・・・。でも赤ちゃんのためにもお母さんが頑張らなきゃね」と優しい言葉をかけてくれました。この看護師さんのおかげでしっかりしなくてはという気持ちになり、パパとは最後まで一緒に頑張れないけれど、赤ちゃんのために弱音をあげずに私一人でも頑張らなきゃならない!私が頑張らないと赤ちゃんはいつまでも天国に行くことができないのだからと思うようになりました。
実家に残してきた子供達二人が体調を崩していたため、私とパパが留守中は父母が看病をしてくれました。子供は少しの異変にも敏感なのでしょうか・・・。“自分のこと”、“赤ちゃんのこと”、“病気の子供達のこと”三つのどこに気持ちをもっていったらいいか分からない複雑な心境でした。明日は赤ちゃんとのお別れになってしまうと思うと、今日も薬を飲んでもあまり眠れませんでした。

【19週4日】
朝から促進剤を使用しました。入院2日目の時よりも痛みが激しく、昼過ぎに更に痛みが激しくなってきたので、パパがナースコールのボタンを押してくれました。看護師さんが駆け付けてくれましたが、2㎝しか開いていないとのことでした。あまり力を入れずに陣痛を逃すようにしたほうがいいですよと言われたのですが、なかなかうまくできませんでした。それから一時間後・・・痛みが更に増し、急に股の部分にポッカリ穴があいたような感覚になりました。「産まれる!」そう思い、急いでパパがナースコールを押すと、すぐに看護師さんがきてくれました。「歩いて分娩室に行きましょう」と言われ、なんとか自力で分娩台まで行きました。師長さんと年配の看護師さんが分娩に立ち会ってくれました。力一杯2回ほどいきむと、すぐに赤ちゃんは産まれてきてくれました。師長さんに、「後程パパと一緒に赤ちゃんに会いに来てもいいですか・・・?」と話すと、師長さんは「会うべきか会わないべきかとても迷っていたし、不安な気持ちを今まで聞いていたから、今はパパだけが赤ちゃんに会った方がいいかもしれない」という言葉が返ってきました。
師長さんには、入院してからずっと不安な気持ちを打ち明けていました。“赤ちゃんに会うとショックから立ち直れないかもしれない・・・”、“会うべきなのか分からない・・・”などと赤ちゃんに会った後こみ上げてくるつらい気持ちを話していたため、師長さんは、きっと私の事を考えこのような言葉を話してくれたのだと思います。師長さんは私が病室までずっと一緒に付き添っていてくれました。
病室に行くと、パパが待っていてくれました。分娩室に行ってすぐに帰ってきたので、全然時間がかからなかったのでビックリしたそうです。時間としては20分くらいで処置は終わり、私のお腹から赤ちゃんはお空へ旅立ってしまったようです。
パパとも以前から、会うべきかどうかを話していました。パパも師長さんと一緒の意見で「ママは赤ちゃんに会うと精神的にかなりショックを受け、立ち直れないかもしれないから会わない方がいいのかもしれない・・・」と言われていました。パパは「俺は赤ちゃんの状態を伝えることができる。こんな体だった、こんな感じだった・・・などとママに様子を伝えることはできるから、それを聞いてみてからもう一度考えてごらん」と言い残し、パパだけが看護師さんに呼ばれ、赤ちゃんに会いに行きました。その間どうすべきか考えてみましたが、答えは見つかりませんでした。
パパが戻ってきて、赤ちゃんの事を教えてくれました。赤ちゃんの産まれた時間や体重の他に、赤ちゃんはとても小さく、パパの片手に乗ってしまうほどの大きさで、上の二人の赤ちゃんの時に似ている顔だったよと教えてくれました。性別は男の子で、頚の後ろに大きなアザができていたそうです。産まれてくるときに頭やお尻からではなく、頚の後ろから産まれてきたため、難産になってしまったそうです。難産でしたが、赤ちゃんの体が損傷することはなく、きれいな状態で産まれてきてくれ、胎盤も全てきれいにでてくれたそうです。
亡くなった赤ちゃんの名前をつけてあげることにしました。第一子も第二子も、流産した二人の赤ちゃん達の名前もパパがつけてくれました。しかし、私はずっと考えていた名前があり、パパにその名前をつけたいと話すと、その名前に決定してくれました。赤ちゃんの名前は『優(ゆう)』。名付けた理由は、早い段階で自分の異常を教えてくれ、どこかちぎれたり傷ついたりすることなくキレイな状態で産まれてきてくれた・・・ママの命を助けてくれた・・・等々、最後の最後まで家族想いの優しい子だったので優と名付けました。

入院の際に病院側にお願いしていたので葬儀屋さんが来てくれました。火葬の手続きについてや、位牌、骨箱などを手配していただき、明日の昼過ぎに火葬場で待ち合わせをする約束をしました。初めての事で何も分からず、気持ちも落ち着いていなかったので自分達で手続きはできなかっただろうなと思いました。

実家の両親に電話で、赤ちゃんが産まれたことを伝えました。赤ちゃんは、私の実家のお寺に納めることになりました。「明日は、パパと一緒に赤ちゃんを供養してあげてね。子供のことは心配いらないから。・・・頑張ったね。」と母は言ってくれました。本当は今日が私の両親の結婚記念日でした。そんな記念日に産まれ、お空に還った優の事を私達はずっと忘れないと思います。そして、赤ちゃんが産まれたこの地は、パパと出会った場所です。パパが以前住んでいた所でしたので、私達二人の思い出も多く、入籍の手続きをしたのもこの街でした。そんな私達にとってゆかりのある場所で、赤ちゃんとのお別れを選びました。


【19週5日】
朝までずっと赤ちゃんに会うかどうかを考えていました。会うとつらくなってしまうかも・・・でも・・・私は親なのに会わないでいいの?
色々な事を考え、一つの結論を出しました。悲しみも辛さも更に増すかもしれないけど、後悔しないように最後に一目でも我が子に会おう そう心の中で決めました。

お昼すぎに退院しました。赤ちゃんは他の場所で業者の方が預かっていてくれるので、パパと一緒に火葬場に向かいました。前日に雪が降り、朝から寒い日でした。
火葬場で、小さな小さな白い棺と対面しました。お焼香を・・・と係の人に言われましたが、声を出して号泣しました・・・足はガクガクして、立っているのがやっとの状態で、そんな私をパパが支えてくれていました。
火葬の直前に赤ちゃんと対面しました。棺の中には、安らかな表情の赤ちゃんがおくるみにくるまれて、左を向いて横たわっていました。対面した瞬間に更に涙が溢れ、赤ちゃんに「ありがとう」と「ごめんね」という言葉をかけ続けました。私の好きな色のピンク色の花と一緒に赤ちゃんをお空に還しました・・・。
待合室にいる間、優が授かってくれたことの意味を考えていました。なにか理由があって私達家族の所に来てくれたのだろう・・・と空を見ながら色々な事を考えていました。
小さな小さな骨をパパと二人で拾いましたが、途中で涙が止まらずつらくなってしまったため、パパに残った全ての骨を拾ってもらいました。
その後、私の実家近くのお寺に向かいました。パパが「赤ちゃんにも実家をみせてあげよう」そう言い、実家の前を通ろうとした時、後部座席から赤ちゃんの声が聞こえたそうです。もしかしたら、パパの後ろの席にのっていてくれたのかな・・・。涙は止まることはなく、お寺に到着してもずっと泣いていました。納骨堂へ行き、お経をあげてもらいました。お経をあげていただいている間に、急にスウッと気持ちが楽になり涙が止まりました。お骨を納めた後、僧侶の奥さんが似たような体験をした話をしてくれました。自分だけどうして・・・と思っていたのに、こんな近くに同じような体験をしていたけれど、こんなに前向きに生きているのだと思うと、私も頑張らなくちゃならないという気持ちになりました。
実家に戻ったら子供達がいるので泣き顔はみせられないと思い、パパと二人でいる間は、思いっきり泣きました。実家に着くと、子供達が私を笑顔で迎えてくれました。何もなかったように、心配かけないようにできるだけいつものママでいられるように振る舞いました。数日間離れていただけなのに、とても大人になったように思えました。本当にいつも以上に子供達を愛おしく思い、二人を抱きしめました。「ママ、お腹治ったの?病院行って治ってよかったね」と上の子供が声をかけてくれました。


【3週間後】
健診に行きました。何も異常がなく、今回はたまたま起こったことで、また子供が欲しいと思えば産むことはできるからと先生には説明を受けました。胸の張りが強くて痛みもあったので、しばらくの間母乳が出ないように薬を飲み続けることになりました。私が帰ろうとした時に、中絶の説明を受けている女性がいました。なんともいえない複雑な気持ちになりました。


時折、一番上の子供は不思議そうな顔をして位牌を見つめています。でも、パパや私に「あれは何?」と聞いてくることはありません。月に一度は必ずお寺に行っていますが、なぜお寺にきているかということも聞くこともありません。他のことならどうして?と親を困らせる質問ばかりしてくるのですが、このことについては何も質問してきません。いつか、子供達に質問されたとき、きちんと答えてあげようと思っています。
今は、少しの間お腹はお休みさせようと思います。人工死産の選択が正解だったのかは一生分からないことだと思います。もしかしたら別の選択をしたら奇跡がおきていたかもしれない・・・そう考えることも少なくはありません。私が今できることは、二人の子供達を一生懸命育てていくことだと思っています。二人の子供達が元気でくらしていることがこんなに素晴らしく、無事に産まれてきたことが当たり前に思っていたけれどこんなにすごいことなのだという事を教えられました。人工死産を決断するまでもう少し時間があれば、赤ちゃんにもっとしてあげられること、思い出を残すことができたのだと思います。
この子は私に沢山の事を教えてくれたように思っています。ママ頑張れ!と背中を押してくれたり、何かを伝えようとしてくれたように思います。この子の死を無駄にしないためにも、私は二人の子供達を頑張って育て、いつまでもメソメソせずに強い気持ちで、前を向いてしっかり歩いていこうと思います。パパや子供達、両親や友人など沢山の人のおかげで、私も前のような元気を取り戻しつつあります。赤ちゃんがママを後押ししてくれたおかげで、弱かった心も少し強くなり、ストレスの原因を断ち切ることができそうです。夜にふとあの時の事を思い出し、一人で涙を流し、立ち止まってしまうこともあるけれど、亡くなった赤ちゃんに恥じないように頑張って生きていこうと思います。
スポンサーサイト
別窓 | お寄せいただいた人工死産体験談 | コメント:3 | トラックバック:0
∧top | under∨

人工死産体験談<ケース17>

空3


夢だったらいいのに、夢だったらいいのに・・・。何度神様に祈ったか分かりません。
夢ではありませんでした。空っぽのお腹も、娘がもういないことも・・・。

長年の不妊治療の末、長男が生まれました。妊娠初期にたびたび出血し、3度の入院の末、安定期に入りました。
その後の経過は順調で、無事に産声を聞くことが、出来ました。

長男も5歳になり、赤ちゃんが欲しいと親子3人強く願うようになりました。
それならばと、もう一度不妊治療に通い始めました。

2006年 10月 
無事に妊娠しました。
長男のときと同じように妊娠初期に出血し、2度の入院の末、安定期に入りました。

2007年  1月 
お腹の赤ちゃんは、女の子と分かり、家族3人大喜びでした。
二人目で早くから胎動を感じていたので、この頃には、私やお兄ちゃんがお腹に手を当てると、「ここにいるよ~」とばかりにアピールしてくれていました。
幸せでした・・・。本当に本当に、幸せでした。
春には、家族4人の生活が始まる・・・・・。当たり前のことと信じて疑いませんでした。

2007年  1月22日 21週0日 
夜、突然出血しました。が、娘は元気に動いていたし、「ゲッ、また入院?」くらいの軽い気持ちで、病院に向かいました。
診察した医師の口から出た言葉は、私の予想をはるかに超えるものでした。
「子宮口が開いていて、「赤ちゃんは助からないかもしれない。」
???赤ちゃんが、助からない???こんなに元気に動いているのに???
意味が分かりませんでした。いつも診察してくれる医師ではなかったので、「大げさに言ってるだけ・・・大丈夫・・・。」と、
自分とお腹の娘に言い聞かせながら、朝を待ちました。

2007年 1月23日 21週1日 
朝、担当医師が診察しますと、病室にストレッチャーが運ばれてきました。
「私の置かれている状況は、こんなに深刻なのか?」と愕然としました。
今までに見たことのないほど、険しい医師の顔でした。「ご主人を大至急呼んでください。」
「今すぐ子宮の口を縛る手術をします。が、それも一か八かで、いつ破水するか分からない状態です。」
破水???したらどうなるんだろう・・・???

すぐに手術が始まりました。子宮の口から出ている胎胞(赤ちゃんの入った袋)をそっと中に押し込んで、子宮の口を2回縛ることが出来ました。
手術は成功でした。後は、予定日まで、絶対安静にしていれば、娘を無事に産める・・・。助けられる・・・はずでした。

2007年 1月28日 21週6日 
早朝、寝ているとほんの少し、何か出たような感覚で目が覚めました。
導尿していたので「おりもの?」と思って、もう一度寝ようとしました・・・。その時、またほんの少し・・・・・・!!!怖くて、鳥肌が立ちました・・・・・・。

すぐに、看護婦さんを呼び、すぐ医師に診察してもらいました。
「残念ですが、破水です。羊水がにごっているので、赤ちゃんは助けられません。」
娘は相変わらず、お腹に手を当てると、「ここにいるよ~」と元気いっぱいでした。
私が、現実を理解するよりも、何倍ものスピードで、娘の「死」だけが、どんどん一人歩きしていくようでした・・・。
その日は、旦那と娘と病室で一日、恐ろしいほど静かに過ごしました・・・・。

2007年 1月29日 22週0日 
朝、診察で「羊水がだいぶ濁ってきてます。母体にも感染症の恐れがあるので、赤ちゃんに出てもらいましょう。」・・・。
昨日まで、娘の命を救うため一生懸命力を尽くしてくれたスタッフに、娘をばい菌扱いされているようで、悲しくて涙が止まりませんでした・・・。
赤ちゃんと離れたくない・・・。「死」なせてしまうなら、お腹の中においておきたい・・・。
そう願いながら、言われるがままに、陣痛促進剤で娘を出産しました。

午後、1時37分 身長30センチ 体重400gを超える、可愛い可愛い女の子でした。
目も鼻も口もはっきりした、美人ちゃんでした・・・。
後日、旦那に聞いた話ですが、生まれて数時間、一生懸命心臓を動かし、生きようとしていたらしいのです・・・。
旦那なりに、考え、悩み、私が取り乱すと思い、言わなかったらしいのですが・・・・、

教えて欲しかった・・・。
必死に生きようとしている娘に、会いたかった・・・。
会って抱きしめてあげたかった・・・。

生きたまま、棺の中に入れられて、一人ぼっちで死んでいったと思うと、悔やんでも悔やみきれません・・・。
娘の生きた証を何一つ残してやることが出来ないまま、娘は天使になってしまいました・・・・。

この間テレビで、21週6日の赤ちゃんが元気に成長しているというニュースを目にしました。
あの時は、何の知識もなく、娘の「死」を選択しましたが、他にも選択肢があったんじゃないだろうか、娘を助ける方法が、あったんじゃないだろうか・・・。
この答えは、一生出ることはないと思います・・・。

医学がどんどん進歩して、助けることが出来なかったたくさんの命が助けられる・・・。
そんな時代が来ることを願っています・・・・。
別窓 | お寄せいただいた人工死産体験談 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨

人工死産体験談<ケース16>

sora33.jpg



私は9年前、妊娠25週で第二子を人工死産しました。
無脳症でした。

本来ならもっと早い時期にエコーでわかったはずなのに、見逃されて25週という遅い時期の処置になりました。
発見は同じ時期に妊娠した友達ママと一緒に、通っていた個人病院に行ったときでした。

私だけ来週また来るように言われ、そのとき「頭の形が少し…」と言われたことを覚えています。

次の週にまた病院に行き、そこで紹介状を渡されました。紹介状の病院、県立のこども病院に夫と行って、診断を受けました。
「無脳症はそんなに珍しくない病気だ」と病院の先生は夫に向かって説明しました。そして私に、「どうしますか」と聞きました。「妊娠を終わらせることも、妊娠を続けることもできます。ただ、生まれてきても子供が生きられる可能性はありません」
そのほかにも、「無脳症は頭の上の部分ができていないので、出産時に開いた頭蓋骨で母体を傷つけることがあるため、発見された時点ですぐ死産させたほうが望ましい」と聞かされました。

私は「死産させます」と、自分で結論を出しました。

けれど、その病院では人工死産させることはできないのだと同じ日に言われました。

また個人病院に戻され、今度は大学病院を紹介してもらいました。どうして個人病院の医師は最初から大学病院を紹介してくれなかったのか、とか、どうして早く見つけてくれなかったのか、とか、心の中は悲しさと悔しさで一杯でした。
同時に感情をあらわにしない夫の態度にも不満を感じました。私は一緒に泣いてほしかったんです。
大学病院では、ラミナリアで子宮口を広げ、促進剤を使って出産しました。
その日まで胎動は感じていました。
陣痛は破水するまでものすごく辛かったです。その辛い時間に、大学病院だったので学生さんが見学に来ていて、よけいに苦しく感じました。それから破水して、途中で胎動を感じなくなり、ああ、終わったんだと思いました。不思議と破水してからは陣痛を感じなくなりました。ただ赤ちゃんは自然に出てくることはなく、医師が手を入れて取り出してくれました。

結果的に死産でした。
病院提携の葬儀社の棺に入った赤ちゃんを、私は見ることもなく空に送り出しました。
私が彼に初めて会ったとき、彼は真っ白い小さな小さな骨でした。

9年たって気持ちは落ち着いています。笑うこともできます。そして、死んでしまった彼のことを考えることも少なくなりました。
けれど、個人病院が怖いという気持ちと、夫に対する愛情が多少冷めてしまったことはもう変えようがありません。

長々とお読みいただきありがとうございました。
別窓 | お寄せいただいた人工死産体験談 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨

The Tiniest Babies (最小の赤ちゃん達)

今朝、フジテレビのとくダネ!http://www.fujitv.co.jp/tokudane/index3.htmlで放送されていましたね。
アメリカ フロリダ州のマイアミで、世界最小の赤ちゃんが順調に大きくなっていると。

録画はしたものの、このブログで確かな情報として紹介するのは抵抗があり、ネット上に記事がないか探してみました。

http://www.baptisthealth.net/bhs/en/article_detail/0,2240,3512_42898959_51319689,00.html
赤ちゃんの名前はAmillia Taylorちゃん。
2006年10月24日、Baptist Hospital of Miamiで生まれました。
この時、体重は284グラム。週数は妊娠21週6日。

更に詳しいことは こちら(pdfファイル/英語)


Amilliaちゃんは奇跡の赤ちゃん。



もし、日本で・・・世界中で
同じような状況になった場合、22週未満なら人工死産を勧められることがほとんどだと思います。


この報道を見て人工死産で赤ちゃんを見送られたママたちの心は、とても複雑だったようです。
もしかしたら、私の赤ちゃんも助かっていたのでは・・?と、打ち消しても打ち消しても消えない思いがそこにはあるからです。


更に、英語ですが
『The tiniest babies』というWeb siteがあります。
http://www.medicine.uiowa.edu/tiniestbabies/index.htm
400グラムに満たない赤ちゃんの登録サイトです。
これを拝見すると、日本での例は
http://www.medicine.uiowa.edu/tiniestbabies/bdorder.asp
・Ishizuka 1985 Sapporo 395 grams 24 weeks Male
・Hokuto 1999 Tokyo 289 grams 23 weeks Female
と、記されています。





別窓 | ちょっとだけ“コラム” | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨

「天寿を全うする」という言葉

流産 
死産 
新生児死
誕生死

たとえお腹の中で亡くなってしまった命でも
誕生してわずかな時間を生きた命でも

『天から授かった命』を、生き抜いたのが
『天寿を全うする』と、いうこと。
自然に生まれ自然に死んでゆくこと。

では、赤ちゃんの鼓動を止めてしまった『人工死産』は
自然に赤ちゃんが亡くなるのを待たず
その名の通り人工的に出産する(した)ということ・・・。



お腹の外に出ては生きられない命。
たとえ生きられても、長くはない命。

・・・そう言われた時の、混乱と葛藤。

赤ちゃんに全てをゆだね 赤ちゃんに『その時』を決めてもらう。
・・・それができなかったのが人工死産

このままでは母体に危険が及ぶと説明されることも多い。
妊娠中毒症や 感染による破水など
自然に任せていては危険な場合だってある。



言い訳を探しているのだろうか。
仕方がなかったと、必死に言い聞かせながら
やはり自分自身には嘘はつけない。

だから、みんな苦しいんだと思う。
“悲しい”より“苦しい”のかもしれない。

母親として一番最低なことをしたのではないか。
我が子の命の長さを決めてしまったことへの罪悪感。



色んなことを言う人がいる。
だけど、その中で、もう1度自分を許そう。
弱い自分も 醜い自分も 認めよう。



自問自答は、決して終わることはないけれど。



別窓 | ちょっとだけ“コラム” | コメント:3 | トラックバック:0
∧top | under∨

人工死産体験談<ケース15>

0013g_600.jpg



13年前の1993年12月22日に、初めて授かった赤ちゃんを5ヶ月で人工死産しました。
プルーンベリー症候群でした。

胎内の赤ちゃんに異常があると診断を受け、翌日大学病院でその病名と症状を聞き、妊娠継続は勧めないという医師の言葉に呆然としたまま入院しました。
大学病院なので仕方のないことですが、珍しい症例ということなのか、何の前置きもなく、担当医師以外の医師がエコーを見に来るのが悲しかったです。

赤ちゃんが産まれてくるまで、3日かかりました。男の子でした。

泣いている私に、看護婦さんは「早く次の子を作りなさい、そうすれば忘れられるから。」と言いました。
・・・絶対に忘れるものかと思いました。

私は息子の顔を見ていません。看護婦さんに、お母さんは見ない方がいいと言われたその通りにしてしまいました。そのことをとても後悔しています。
何故あの時、顔を見てあげなかったのか、抱いてあげなかったのか。初めての子どもを死に追いやったこと、その上、顔も見てあげなかったことを思うと、今でも苦しくて苦しくて仕方がありません。

息子のために祈るとき、棺に一緒に入れてもらった小さなクマのぬいぐるみを思います。小さなそのぬいぐるみよりもっと小さかったと、夫が言っていたからです。本当は息子の顔を思い浮かべて祈りたい。

産科ですから、病室を一歩出ると、かわいい赤ちゃんがいやでも目に入りました。
代わりになるわけもないのに、奪って逃げたいと思いました。

3ヵ月後に夫の弟の彼女が妊娠し、結婚前の挨拶に連れてきました。妊娠している彼女が羨ましくて妬ましくて、優しくすることが出来なかった。13年経っても、あの頃の心持ちをまざまざと思い出すことが出来ます。

ありがたいことに、その後、2人の娘に恵まれました。
娘たちには、2人にお兄ちゃんがいることを話しています。

生命というものが、ただそこにあるだけでも奇跡だということを知って欲しいし、私が死んでも、「正汰」という小さな小さな男の子がいたことを知っている人がいて欲しいから。

けれど、息子のことを考える度に、本当は他の道があったのじゃないか、私は罪を犯したんだ、と思います。
それは一生思うと思います。

ずっと誰かに聞いて欲しかったけれど、こんなヘビーな話、親しい友人にも出来ませんでした。
ありがとうございます。


別窓 | お寄せいただいた人工死産体験談 | コメント:1 | トラックバック:0
∧top | under∨

自然に産むって?普通に産むって? ~人工死産の反対側にあるもの~

赤ちゃんの重い病気や障害、あるいは母体の病気や合併症などの理由で、人工死産にて我が子を空に『お還しした』ママにとって、その後一番に思い出されることは、“我が子の存在を知ってくれている”医療スタッフの言葉や態度であったりするように思います。

納得できるお産であったか。
関わってくださった医師・助産師・看護師などのスタッフの対応に真心を感じ感謝できたかどうか。
それともその反対であったのか。
それは、今後を生きていくパパやママにとって最重要なポイントだと思います。

最近はスピリチュアルな話題が多くあって、確かに、それで慰められたり癒されたりするのですが、私自身は、産科医療に携わる方々に寄り添っていただくことで、どれほど当事者であるママたちが救われるだろうかと、いつもいつも思うのです。





赤ちゃんを失ってしまった“直接”の理由は、赤ちゃんや母親の病気あるいは障害ではなく『人工死産』であるという事実が、母親の自責感を更に強いものにし、激しく自分自身を責め、そして苦しむことになります。

散々悩んで 考え抜いて そして出したはずの結論だったと、自分で自分に言い聞かせる。しかし、心の片隅でくすぶり続ける想い。
「私が、我が子を殺してしまった。」

人工死産に至るには、大きく分けて2種類の理由があります。
それは冒頭にもありますが
・赤ちゃん側の病気や障害によるもの
・母体側の病気や合併症によるもの

『赤ちゃん側』の場合は
ポッター症候群 
胎児水腫 
胎児浮腫 
腹壁破裂 
致死性骨異形成症 
神経管閉鎖障害
二分脊椎
無脳症 
無頭蓋症 
18トリソミー
13トリソミー  
全前脳胞症 
脳瘤 
外脳症 
嚢胞性ヒグローマ 
小頭症
脳ヘルニア
プルンベリー症候群 


『母親側』の場合は
細菌感染
羊水過少 
前期破水 
子宮内膜炎
絨毛膜羊膜炎
妊娠中毒症 
子宮頚管無力症


などを挙げることができるかと思います。実際にはまだまだ多くの症例があると思いますが・・・。
しかし、これも本当は区別などできないもので、卵子・精子・受精卵・胎児・子宮・胎盤・臍帯などは、そのすべてが深く関係し繋がっているからこそ、たとえ『赤ちゃん側の理由』であっても、母親にとっては「私のせいで・・・・」と自身を責める理由になります。

仮に『赤ちゃん側の理由』であったとして、エコーなどで赤ちゃんの異常が発見された場合、それが深刻なものであればあるほど、22週以前に中期中絶(人工死産)を提案されることがほとんどだと思います。
週数が大きくなればなるほど、赤ちゃんは痛みや苦しみを感じるのかもしれない。
そしてこのままお腹の中で育てていても、いずれは子宮内胎児死亡となるか、生まれてくることができても長くは生きられない、と説明され・・・『その時』が来るまで待つということが、どれほど辛いものか予想もできず、またそうすることが赤ちゃんにとって更に苦痛になるのかもしれないと、パパやママは与えられた残り少ない時間の中で決断するに至ります。

しかし、そう決断して我が子を見送った後に、同じような状況にあったにもかかわらず、赤ちゃん自らが『その時』を決め、自然に生まれてくるまで待った方たちの体験を、本やネットで知ることになったパパやママは、更に追い込まれることになります。

それが

にも紹介されている内容です。

読んだことがない方の為に、概要や感想を詳しく書いていらっしゃるブログがあります。ただし人工死産を経験なさっている方にはショックな内容であるかもしれません。しかし、このような出産を望んだ母親がいて、それをサポートした大野 明子さんという産科医がいるという事実を知ることは大きな意味があるように思います。
【ブログタイトル】ママ元気せらぴ~2
【記事タイトル】『ふつうに産みたい!』と願う勇気
記事へのリンクは こちら。

またネットでは、時々、お邪魔している
産科医 竹内正人のいのちのブログ
があります。竹内先生は当ブログ右欄にて紹介している

の著者でもあります。


私は上記のお二人のブログに、コメントを投稿させていただきました。
そのリンク先をここに紹介します。

『ふつうに産みたい!』と願う勇気へのコメント
http://ameblo.jp/mama-genki/entry-10025152534.html#cbox

人工死産の経験者として 

はじめまして。
私は、人工死産経験者であり、多くのママと出会い交流させていただいてる者です。
こちらの記事を拝見いたしました。
ある1人のママが、こちらの記事を読み、自分を責め続けてしまい苦しんでいるということを知り、お邪魔させていただきました。
多くの命が生まれる中、そこには重い病気や障害を抱えてくる尊い命もあります。
私達は、医師からの説明を受け、人工死産という決断をしました。
・・・なぜ我が子であったのか。
その答えを探し続けていくことが、私達が今もこうして生かされていることの意味なのかなとも思います。
自然に任せることが、どれだけ理想的であるか・・・。 ですがその決断を全うさせることができる環境にはないのが実情のように思います。
看護師でもいらっしゃるようなので、御存知とは思いますが22週より前に重篤な疾患が判明した場合は、 中期中絶(人工死産)を勧められることがほとんどです。

私達は、自分が経験したことを『罪』だと思っています。そして強い自責の念に駆られ、苦しむ方がほとんどです。

こういう選択をしたからこそ、我が子に生きるということはどういうことなのか、命とは何かと教えられたように感じています。ですがそこには正解はなく、自問自答はきっとこれからもずっと続けていくのでしょう。

赤ちゃんの死は、たとえその生が胎内だけであったとしても、出産後まもなくして亡くなったにしても、命の帰結です。
結果は死であったかもしれないけれど、死だけにフォーカスするのではなく、命の誕生を認め、お祝いして、人間としての尊厳を医療者が家族と共に認め、共有していくことが、その後を生きていく家族にとって、どれほど重要な意味を持つか。

それを実践したのが大野先生と30週で出産なさったお母様なのでしょうね。
でも、それすら選択肢になかった。あるいは選択肢はあったけれど、自分はそれはできなかった。という場合は・・・本当に無念でありまた自責の念に長く苦しめられるということも、私はしっかり心に留めておきたいと思います。

おかよ (2007-02-15 12:03:48)





『あなたの子ですもの、かわいいに決まってます』へのコメント
http://takeuchimasato.cocolog-nifty.com/inochi/2006/05/post_8c3d.html#c7744845

竹内先生 はじめまして。
以前から度々こちらへお邪魔しているおかよと申します。
今までにも何度か辛くなり、その度に、コメントを残させていただこうかどうしようかと悩み、結局そのまま立ち去ることを繰り返してきました。
しかし今日は決心して、こうしてキーボードを叩いています。
私は人工死産のサイト http://www15.ocn.ne.jp/~nikomama/
を運営している一経験者です。
1998年に第1子である娘を妊娠20週頃の前期破水により、人工死産の選択を突きつけられ、21週4日でお別れしました。
サイトを立ち上げた当初の目的は、娘のことを「無かったこと」にしたくなかった。忘れたくなかった。・・・だったからでした。そしてどこに向けたらいいのかわからない無念さや悔しさ、怒りといった感情のはけ口を探していたのかもしれません。
サイトを立ち上げて2年半。今までに人工死産経験者の方から数多くのメールをいただき、現在は、経験者のためのサイトでありたいと願って細々とではありますがサイト運営を続けています。

今までに一番辛かったメールは
「今、人工死産するかしないかの決断を迫られている方」からのメールと、
同じような条件下にもかかわらず
「赤ちゃんの命が助かった方」からのメールです。

前者の場合は、私に何らかのアドバイスを求めていらっしゃることがわかるのですが、私はただの経験者に過ぎず具体的なアドバイスは一切できません。ただ、手元にある資料を送ったり医師とよく相談されてくださいと伝えることしかできません。そして同じように苦しみ崩れてしまうことがほとんどです。
後者の場合は、助かった赤ちゃんのご誕生を心から喜び、これからの無事な成長をお祈りさせていただくとともに、もう一方で「もしかしたら私の娘も助かったのかもしれない。それなのに、私は娘を死に追いやったのか。」と、再び自責の念に駆られてしまうことになります。
竹内先生の著書、「赤ちゃんの死を前にして」の58ページに【流産とは妊娠22週未満の妊娠中絶をいう】にも
>>>
例えば、妊娠20週前後での前期破水などで胎児の予後が危ぶまれるケースでは、22週以前にその子の運命を決める話し合いをしなければならないのが現実である。
 
~中途略~

しかし、「先生の奥さんがこの状況だったらどうしますか」と聞かれると、私はいつもその問いに応えることができず、口ごもり、言葉を濁してしまっている。
今後の経過と予後に関しては、可能性として説明することしかできないが、このような場合、最終的に多くの方が人工妊娠中絶を選択されるのが現状であろう。
>>>
と記されていますよね・・・。

今現在は「22週」という壁が、とてつもなく高く立ちはだかっています。
ですがそれも、1993年以前では1979年に妊娠24週未満の場合を流産と定義され、更に1979年以前では妊娠28週未満だったことから、いつか22週という数字も前倒しになってくるのかなと受け止めてはいました。
それが実際にサイトをご覧になった方から「私の赤ちゃんは助かりました。」というメールをいただく度に、私の心は激しく動揺してしまうのです。

サイトを立ち上げてから、多くの知識を得ました。
多くの出会いがありました。
これこそは、娘が「死して」与えてくれたものです。

ですが、なぜ、娘は死ななくてはいけなかったのか。
なぜ、私が娘を殺さなければいけなかったのか。
8年が経過した今も、その答えが出ないのです。

医療の世界は絶えず進歩しているのですね。以前は救えなかった命が、救えるようになってきたという事実。その片側で、どうしても医療では救えない命があるという現実。
では、私の娘はどちらだったのか。

このままサイトを続けていく自信が、失われていきそうで・・・
すべてを受け止めることが怖くて、逃げ出したくなります。

語弊があるかもしれませんが
「生」が正しく
「死」が悪なのだと思ってはいません。

だけど、いつも悩むのです。

私の大切な天使ママお友達の中にも、全前脳胞症で赤ちゃんを人工死産でお空に還された方が数名いらっしゃいます。
今回のUPされた記事を拝見して、どっと気持ちが溢れ出してしまいました。

失礼がありましたら・・・どうかお許しください。


投稿 おかよ | 2006/12/17 14:13:57



私のコメントに記事としてお返事を下さった竹内先生に感謝します。
その記事がこちら。
198. 「死して」与えてくれる

少しずつ想いを、当ブログにて綴っていきたいなと思っています。
長くなったので、今日はこれで・・・。また改めます。

別窓 | ちょっとだけ“コラム” | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨

ブログのご紹介『ペコ日記』

ライ子さんが綴るブログ ペコ日記

ぺこちゃんはライ子さんのおなかに初めて宿ってくれた大切な大切な命でした。
しかし無脳児であると診断された為、2006年8月に人工死産でお空へ還されました。

以前から体験記を書こうと思っていらっしゃったそうですが、きっかけがなかったそうです。そして 2007年01月28日がぺこちゃんの出産予定日だったそうで、その記念としてブログを開設されました。
妊娠してから人工死産に至るまで、少しずつ綴っていかれる予定です。

もしこれから人工死産をせざるを得ない状況の方で、これから処置を受けられる方がいらっしゃれば少しでも参考になればと思います。

と綴っていらっしゃいます。

また不妊治療に関する記事も更新していかれる予定です。


別窓 | リンク先のご紹介 | コメント:4 | トラックバック:1
∧top | under∨

ブログのご紹介 『■■■17w4d■■■』

gayoさんは、第2子である赤ちゃんがプルーンベリー症候群であることが判明。そしてお空に還されました。まだ1月16日のことです。赤ちゃんとお別れなさってからまだ日も浅く、感情の起伏の激しさに、戸惑われる時期ではないかと思います。

『書く事が救いになればと思いますが、辛すぎて書けない事も沢山あります。少しずつ吐き出せたら良いなー。』

gayoさん
本当にそうですね。

書くことは、もう1度同じ体験を繰り返すことです。
だから痛みを伴って、体も心も拒絶反応を起こすことがあるでしょうね・・・。

ですが、書かずにはいられない思いもあるんですよね。
書きながら、セルフケアをしていくのだと思います。
答えが出なくても、その答えを探し続けることを止めることができないんですよね。
だから時々立ち止まったり休憩したりしながら、自分自身と向き合うことは、やはり大切なことだと思います。

gayoさんのブログは ■■■17w4d■■■
きもちの整理のために。 170グラム・19センチの『ほまれちゃん』との思い出。


別窓 | リンク先のご紹介 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨
| 出生前診断の告知のあり方と自己決定の支援について考える【泣いて笑ってBlog】 |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。