出生前診断の告知のあり方と自己決定の支援について考える【泣いて笑ってBlog】

メインサイト http://www15.ocn.ne.jp/~nikomama/

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

別窓 | スポンサー広告
∧top | under∨

妊娠21週でお空に還してしまった娘 樹里~1~

1998年1月

生理予定日にいつもの鈍痛と出血があったものの量はさほど多くなく・・・・あれ?と思い始めました。

日数も短くて・・・そしてその約1週間後、ムカムカするので
「もしかしてつわりかも・・・。」とドキドキしながら産婦人科を受診。

エコーには小さい胎嚢がうつっていました。
その瞬間くすぐったいような感激と共に、それを打ち消すかのような戸惑いの方が大きかったような気がします。



1998年3月 

妊娠がわかってからも毎日外回りの仕事をしていました。
そしてほとんど立ちっぱなし。重いものを持つことだってあります。
・・・その日は会社へ帰る車中でとてもだるくて疲れていました。帰宅してからは夕食を作る気にもなれなくて、ベッドの中で休んでいました。
そして夜、トイレに立った時に下着が出血で汚れていました。動揺しながらも私に限って大丈夫という変な自信みたいなものがありました。けれどとにかく夜間だったけれど電話を入れてから産婦人科へ。
「家で安静にしてください。」と薬をもらって帰宅。
妊娠初期に多少の出血があるのは、そう珍しくないことだと何かで読んだことがあり、さほど心配ではありませんでした。

ですが大事を取って、翌朝、会社に事情を説明し休みをもらって1週間。けれど出血は止まらない。それどころかどんどん量が増えていくのです。
でも、私にはまだ危機感がありませんでした。様子を見に来た実妹が、そんな私に早く病院に行くように促しました。そして午後に受診。即入院。妊娠15週の時でした。

規則的にお腹に張りが起きているとのこと。切迫流産でした。
ウテメリン(張り止め)の点滴が開始され、トイレや食事以外はベッドの上で安静に。
ウテメリンの副作用からか、常に吐き気と動悸に悩まされることになりました。



1998年4月  

入院して約1ヶ月。
出血はまだ続いていました。
そしてある日、生理の時にあるような下腹部の鈍痛、重い感じがあり医師に伝えました。
そして1日2回3日間、点滴で抗生物質を投与。
その後お腹の赤ちゃんも元気でお腹の張りも落ち着いてきたので、点滴が外れることになりました。
午前中に最後の点滴が全部無くなったところで不自由さから開放されました。
そしてその日の夜中違和感を感じトイレへ。水っぽい出血が「多い日用」の生理ナプキンいっぱいに染みこんで重たくなっていました。
なんで?出血?しかもこんなに大量・・・。点滴をはずしたから?
でもまだこの時も、看護師さんに報告はしたけれど危機感はありませんでした。
次の朝、主治医が回診に来たときにそのことを告げると、「後で診てみましょう」と言われました。


「羊水過少かもしれません」
エコーで子宮と赤ちゃんの様子を見ていた医師が言いました。
本来なら羊水は黒くうつるはずなのですが・・・・赤ちゃんのまわりにはそれがほとんど無く・・・・
「え?どういうこと?」と訳がわからずにいました。
個人病院の為、そこではもう対処しきれなくなったのか設備の整った国立の総合病院へ転院の手続きをすることに。
           
午後から母と看護師さんに付き添ってもらってタクシーに乗りました。久々の外の景色。桜はとっくに散っていてツツジが綺麗に咲いていたのが印象的でした。
そして総合病院の産婦人科外来に到着。
たくさんの患者さんが待ってる中、私は優先的に診察を受けることになりました。タクシーに乗ってる間も、病院の玄関から外来に向かって歩いている時もお腹は頻繁に張りました。

それでも私は自分の身に起こっていることの重大さを知らないままに、受診を待ってる間に付き添ってくれていた個人病院の看護師さんに
「今、赤ちゃんはどれぐらいの大きさなの?」とのんきに聞いていました。


暫くして診察になりエコーを厳しい面持ちで見ていた医師が言いました。
「今の時点ではなんともいえませんが羊水過少というよりも破水した可能性が高いです。検査の結果を待ってみましょう。」
すぐに病棟へ移されウテメリンは錠剤で、抗生物質は点滴で投与を開始。ここでもベッドの上で絶対安静となりました。そしてお腹の張りも、また感じられるようになってきて・・・。
ベッドの上で私は考えていました。
(破水?破水って赤ちゃんが生まれる直前に起きるんじゃないの?) 
漠然と考えながら、なんだか、宙に浮いたような感じでした。

これから先に待ってることなんて、なにも考えることは出来ませんでした。
それから数日間、何度もエコーで見たりしたけれど羊水は少ないまま・・・。
まだこの週数だと赤ちゃんは羊水の中で自由に動き回れるはずなのに、
エコーに映し出される私の赤ちゃんは窮屈そうにしていました。
「そろそろ胎動が感じられるはずよ?わかりますか?」と、看護師さんから言われるけれど、私は全く胎動を感じることが出来ず。。。

もしかしたら、子宮の中でキュウキュウになってた赤ちゃんは動けるはずがなかったのかもしれません。
           
そして・・・数日後やはり破水だと診断されました。
私の場合、ずっと出血が続いていたのでいつ破水したのかは断言は出来ないが、出血してると破水自体もわかりにくいと言うことでした。
でも思い返してみると、最初に入院していた個人病院でウテメリンの点滴がはずれた日の夜中に破水したのではないかと私は思っています。
だって明らかにいつもより量が多い水っぽい出血だったから。
抗生物質を投与してもらった直後だったのに、それが効かなかったのだろうか・・・。

細菌感染による前期破水でしょうということでした。
もし私が明らかに多い出血だと感じた日に破水したのだとすると・・・その時は妊娠20週でした。

でも?
破水したからなに?

・・・・主治医の口から出てくる言葉に全神経を集中させていました。
冷静に聞いていたと思います。
これは最悪なことになるのかもしれない・・・・そう考えながらもちゃんと聞いていました。

「中絶?!」
主治医は最終的には私たち夫婦で結論を出してください。
・・・と、言う。


21週というと中絶が出来るギリギリの週数。
22週になると法律で中絶はできない。
でも、なぜ中絶なのでしょうか?
今まで張り止めや抗生物質の投与を受け、赤ちゃんを守ってきたはずなのに。私は訳がわからなくて混乱しそうになりました。

医師の説明では、まだこの週数で破水したとなると赤ちゃんの肺が成熟できず、たとえこのままお腹の中でもたせて大きくなって出産できたとしても、産声をあげられず肺呼吸が出来ずに亡くなってしまう可能性が大きいと・・・。
もし呼吸がかろうじて出来ても障害が残るだろうということでした。

            
正直、この1ヶ月ちょっとの間、24時間ずっと点滴につながれっぱなしで私はとっても疲れていました。
入院中もお腹の赤ちゃんのことよりも自宅に置いてきた2匹の猫のことが心配でたまりませんでした。

それにまだなんとなく実感が無かった・・・私の身に起きてることなんだけど、でも、何処か他人事のような・・・そんな感じでした。
でも、決定しなければならなかった。
タイムリミットは刻々と近づいていく。

主治医ではなく様子を見に来た若いドクターに聞いてみました。
「先生なら・・どうする?先生の奥さんがこうなったら・・・・。」  
「・・・ぼくなら・・・今回は諦めると思う。」
「そっか。そうなんだ。」  

赤ちゃんは・・今、お腹の中で苦しいのだろうか。
私も苦しい。
そしたら、ここで終わりにしてあげたほうがいいのだろうか。

でも、お腹の中に留まらせれば赤ちゃんは大きくなることができるかもしれない。万が一、呼吸だって出来るかもしれない。
あと数ヶ月絶対安静のまま過ごし、望みを賭けて産んであげた方がいいのではないか。たとえ障害が残っても、私の可愛い赤ちゃんには違いないのだから・・・・。

葛藤だった。

生きてきた中で一番悩んだ「答えを出す」ということ・・・・。
タイムリミットは近づいてる。
でも、簡単に出せる答えじゃない。
「時間をください・・・。」
そう伝えるのが精一杯でした。

一晩、ベッドの上で考えていました。
羊水がほとんど無いこの子宮の中で私の赤ちゃんは動かなかった。
でもお腹の上に手を置いて、心の中で話しかけました。
「あなたは・・・どうしたい?生まれてきたいよね。ごめんね。今まで自分のことばっかり考えてた。ごめんね。」
一生懸命、一生懸命話しかけました。

破水したと考えられる日の直前、私は夫と電話で話しました。
話したというより・・・・声を聞きたくて電話したら受話器の向こうから聞こえてきたのは励ましの言葉でも慰めの言葉でもなく、
「おまえのせいでこっちは大変なんだ。洗濯も掃除も飯だって自分でしなくちゃいけない。仕事でクタクタなのになんでこんなことまでしなくちゃいけないのか。お前、ちゃんと安静にしてるのか?安静にしててなんで退院できないんだ?!」
という怒りに任せた夫の声。

私はこのとき、本気で離婚を思いました。

こんな人と、この先やっていけない。
仕事で大変なのはわかってる。でも、私には今、支えが必要なのに、こんなに辛いのに、この人はなぜこんな残酷なことが言えるのか。 
こんな人と結婚したのは間違っていたのかもしれない。それなら、今、お腹の中にいるこの子もいらない。

私は、そう思ったのです。
悔しくて悲しくて寂しくて、一人、ベッドの上で泣きました。

・・・・だから?
赤ちゃんは私が「もういらない」なんて思ったから、私のところから去っていこうとしているのだろうか。
失望したのだろうか。
怒っているのだろうか。
泣いているのだろうか。

・・・出血は止まらない。

ただ、怖かった。怖くてたまらなかった。
時間が戻せるなら・・・・妊娠した頃に戻って毎日毎日お腹に話しかけ、体を労わり、仕事も無理しないで、ただただ無事に生まれてきてね・・・と、語りかけるのに。



1998年 5月1日


その日は妊娠週数21週3日になっていました。
一晩考えて、出した結論。


「今回は諦める」



きっと私は・・・もう自分が楽になりたかった。
だから諦めようと思ったののではないかと思います。。
夫からも言われました。
「もし障害を持って生まれてきたら、俺は自信が無い。子供にも辛い思いをさせるのではないか。」
その言葉に傷つきながらも頷く自分がいました。
綺麗事ばっかり言っても、私だってきっと自信が無いのだ。

でも、もしここで夫が「とにかく頑張ってみよう。障害を持って生まれてきても頑張って育てよう。もし、お腹の中にもたせていても死産になったら。。。。その時は運命だ。」と、言ってくれていたとしたら・・・?
・・・きっと私は、点滴につながれたまま絶対安静を選んだだろう。
それぐらい私には自分で判断する気力が・・・・なかったのです。
自然の流れに任せるならば、今、ウテメリンをやめてもらったら・・・赤ちゃんは出てきてしまうのか。
それとも薬の力を借りながら、できるだけのことをするのが自然なことなのか。
考えても考えてもわからなかったのです。

お昼前、自分たちの決断を看護師さんに伝えました。
暫くして婦長さんが部屋に入ってきました。
まだ迷ってる私の目を見て、励ましてくれます。
でも、「次に赤ちゃんが授かった時」そんな言葉が、納得できずにいました。とても心にひっかかってしまったのです。
私には今、次の赤ちゃんなんて考えられない。
今、存在しない赤ちゃんのことは考えられない。
たった今、そう、今この瞬間も私のお腹の中で生きている小さな赤ちゃん、この子を助けて欲しいだけ。
それが無理だと言うのならこの苦しみから私を助けて欲しいだけなのです。



昼食後、処置が始まると言うことでした。
こんな時にご飯なんて食べられるはずがないのに、なんで食べてるのか自分でもわかりませんでした。
同意書だって書きました。
確か「子宮内容除去術」だと書いてありました。
この言葉、非常にショックでした。
私にとっては、今、命あるものを抹殺すること。
法律的にはまだ「人間」として扱われるギリギリ前だということは、承知しています。
だけど、この言葉は、私には残酷すぎました。
この子は、どのような思いで、今、私のお腹の中にいるのだろう。

まずラミナリアという海草で出来た棒状のものを、1本、2本、3本と時間をあけて様子を見ながら子宮口に入れていくのだと。
陣痛を起こすために促進剤を入れることになると思う。きっとお産まで3日ほどかかるだろうと説明がありました。
これから長く苦しい戦いが始まるのだとその時、とても怖くなりました。もしかしたら、ここから逃げ出せば・・・・赤ちゃんは助かるのかもしれない。
そうだ。逃げよう。
赤ちゃんと運命を共にしたってかまわない。
そんな考えがグルグルグルグル頭の中を駆け巡っていました。
しかし、看護師さんが迎えに来ました。

・・・・・もう、逃げられないんだ。覚悟しなくちゃいけないんだ。

どう処置室に向かったか、もう覚えていません。
でも、あのラミナリアを挿入された時の激痛は今でも忘れられません。
あの突き刺さるような痛み。
「痛い!」叫んでいました。

部屋に戻ると、何も知らない友人が見舞いに来てくれていました。
でも、なにも話す気になれなかった。
「お願いだから今日は帰って・・・」相手のことを思いやれる余裕など微塵もありませんでした。
そしてすぐに生理痛のような鈍痛が始まりました。

私は、「お産」をするのだ。
麻酔して眠ってる間に処置をしてくれるのかと思っていたけれど、それは大きな思い違いでした。
普通のお産のように赤ちゃんを産まなきゃいけない。
陣痛は、とても痛いものだと聞く。
しかしそれは、可愛いわが子に会えるからこそ、母親はその痛みに耐えることが出来るのではないだろうか。
この苦しみを乗り越えたら、とても幸せな瞬間が待っていると信じているから頑張れるのではないのだろうか。

しかし、私は・・・・?
「産む」=「死」を意味するお産が今から始まろうとしているのだ。

ただ、ただ、時間が過ぎ去ってくれればいい。
もうこんな辛いことは早く過ぎ去って。。。。

その日の晩、消灯時間が過ぎて暫く経ったころ、なにか温かいものがジュワッとおりた気がしました。
瞬間、また「破水かも」と思いました。
ナースコールをする。
看護師さんの腕につかまり、ヨロヨロと処置室に向かう。
当直医の若い女医さん。
「う~~ん・・・破水じゃないと思いますけどね。」
また部屋に戻る。
お腹の張りの感覚が・・・どんどんせばまってきてる気がする。
波が来ると、ググーッと今までにないぐらいお腹が硬くなる。痛い。
石のように固くなる子宮。
赤ちゃん・・・・ごめんね。ごめんね。

我慢していたけれど、やはり波はどんどん襲ってくる。
まだ夜中だったけれどナースコール。
モニターをつけられ分娩室に移動する。
だけど医師の診察はない。
きっと、まだ時間がかかるだろうと看護師・助産師さんが判断したのだでしょう。
だけど、悲しいのは・・・・
今までモニターをつけてくれるときは、赤ちゃんの心拍が聴こえるようにボリュームをセットしてくれていました。
私の鼓動よりはるかに速いその音。すごい。確かに私とは違うひとつの命がそこにはあると、確認できて嬉しかった。
しかしこの時は、陣痛の波の間隔をはかるだけ。
確かに、今、心拍を聞いたら・・・私は狂ってしまうだろう。
もし、心拍が止まったら、私はどう取り乱すかわからない。
でも今は、かろうじて一生懸命冷静に努めました。

痛みは強く、ひとりでこらえる。
真っ暗な分娩室。
わずかなあかりだけがついている。
窓の外も真っ暗。この窓の向こうには星空が広がっているのだろうか。
月がのぼっているのだろうか。
神様は、今の私を見てくれているのだろうか。
私にはわかる。赤ちゃんは、私から出て行こうとしている。
赤ちゃんはきっと今、苦しんでいる。
だから祈らせてください。お願いします。
今回はこの子を、神様、あなたのもとにお返しします。
だから・・・もう1度この子を授けてください。
どうかこの子が苦しまないであなたの許に帰れますよう。
そして身勝手ですが・・・いつかまたこの子と会わせてください。
どうかどうかお願いします。
今回はお許し下さい。どうかどうか・・・

そうずっと心の中で暗い窓の外に向かって祈り続けました。
繰り返しやってくる陣痛の波。痛いとは決して言うもんか。今の私にできることは祈ることだけ・・・。
祈ることで自分を落ち着かせようとしていたのかもしれません。
宗教なんて持たない私が。

時々はウトウトしていたのかもしれません。
しかし朝になるまで早かったような長かったような・・・・
時間の感覚がまるで麻痺していました。


1998年 5月2日

朝9時半ごろ母が分娩室にやってきました。
疲れた私の顔を見て「一人で辛かったろう・・・ごめんね。」母の目には涙が光っていました。

その時、陣痛の波は遠ざかっていました。
一旦部屋に戻ります。
そしてお昼に内診。子宮口は、かなり開いていたらしくラミナリアの追加はされませんでした。
そして人工的に陣痛を起こすため、座薬の陣痛促進剤が入れられました。この時も「長期戦になると思う。」そう医師から言われました。 

部屋に戻って30分ほど経った頃、再び陣痛が襲ってきました。
間隔はどんどんせばまります。
時計を見ると7分間隔。母が慌てて看護師さんを呼びに行きました。     
痛い。痛い。動けない。
ベッドに横になったまま分娩室に運ばれました。

また何かあったら呼んでください・・・と言われる。
母はずっと心配そうに私の腰をさすってくれました。
何度も何度も襲ってくる波。
「もう少ししたら先生に診てもらいますね。」様子を見に来た看護師さんが言う。

そしてお腹に違和感が走る。
両足がぶるぶると震える。
「いきみたい」とっさに母に伝える。いきみたいなんてどういう感覚かわからないのに。

助産師さんが診に来ました。「まだ赤ちゃん降りてきてないよ。」
そんなはずない。おかしいよ。
「歩けますか?内診台に行けますか」
「無理です。歩けない。」
そうやり取りしてる時に主治医がやってきました。
「あ、赤ちゃん降りてきてるね。産まれるよ。」
産まれる?生まれる?うまれる?
・・・・・・・って、なに?
この子にとって生まれることは死ぬことなのに。
生まれるなんて言葉、不適切だよ、おかしいよ。
心の中で叫んでた。   

午後2時14分。
420グラムの女の子だった。


1回もいきまないうちに、赤ちゃんは産まれました。
にゅるんと、温かくて柔らかいものが太腿に触れました。
続いて臍の緒が、また太腿を撫でていきました。

赤ちゃんは泣きませんでした。

私に赤ちゃんを見せることなく、看護師さんが分娩室の外で待っている母の元へ連れて行ったようでした。
銀のトレイに乗せられた小さな赤ちゃん。 
母は泣いたそうです。想像していたよりはるかに大きく成長していた赤ちゃん。
可哀想なこの子を思い、可哀想な私を思い、母は泣いたのでしょう。
初孫になるはずだったのに・・・・・・。

私は、母を悲しませてしまった。
とても親不孝なことをしてしまった。

赤ちゃんが産まれてすぐ、胎盤を引き剥がされました。
とても痛くて叫んでしまいました。

終わった・・・・
終わったんだ・・・
何もかも疲れきってしまった。悲しいのに涙も出ない。
疲れてるのに眠れない。

~2~へ続きます。
スポンサーサイト

別窓 | 私の人工死産体験 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨
<<妊娠21週でお空に還してしまった娘 樹里~2~ | 出生前診断の告知のあり方と自己決定の支援について考える【泣いて笑ってBlog】 | 人工死産体験談<ケース9>>>

この記事のコメント

∧top | under∨
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

この記事のトラックバック

∧top | under∨
| 出生前診断の告知のあり方と自己決定の支援について考える【泣いて笑ってBlog】 |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。