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人工死産体験談<ケース10> |
2006-07-20 Thu 12:22
![]() 私が36歳になる直前の2005年9月、第2子の妊娠が判りました。6歳の息子と「お兄ちゃんになれるね」と喜び、とにかく安静に務めました。 ようやくつわりが楽になった1月。安定期を迎え、胎動を感じるようになり、おなかの膨らみと共に愛おしい赤ちゃんの存在を感じ始めたのに・・・2006年1月31日、娘は23週1日で、天使になりました。 1月上旬:明け方に腹緊で目覚める日が1週間に2回も。 1時間ほど痛みは治まらず、「息子の時は、こんなことなかったのに・・」不安な思いを抱き始めました。 1月16日(21w0d):予約した妊婦検診まで1wあったけれど、1日に10回弱の腹緊が数日続いたため受診。 エコーでは、子宮がそら豆のようにいびつに凹んでおり、医師は「これじゃ痛いはずだよ」と。 子宮頚管・子宮口は異常ないため、張り止めの薬をもらい帰宅。 安静に1週間過ごしましたが、張りはさほど変わらず、不安が増す日々でした。 そして・・頭臀長で赤ちゃんの大きさを測ると、画面には19w・・「あれ?小さい・・」と思った直後、先生が「うん・・・ちょっと・・気になることが・・・」 成長が遅い、脳室の拡大と腹水貯留、手の動き・・等の心配が見られる。即日入院して、張りを抑えながら娘の様子を見ましょう、と。 「脳の異常?・・腹水?・・」、軽い心配で済まされることではないと、素人の私でも解りました。 検診の日は月曜でしたが、偶然が重なり、平日の昼間なのに夫も息子も揃っていました。 急な入院で動揺していたけれど、夫や息子の助けを借りながら準備をし、車を運転してもらい、家族で病院へ行くことができました。 入院の準備をして夕方病院へ。すぐ点滴でウテメリン投与を開始。しかし張りは治まらず、薬の濃度を上げても張りは増す一方。トイレに行くのも寝返りも、どんなに静かに身体を動かしても、お腹はキュ~ッと硬くなります。背中一面が張って呼吸をするのも苦しい・・ それでも「張りが治まれば、赤ちゃんと退院できる」と信じて、眠れぬ夜を2日過ごしました。
2日前の診断に加え、小脳の異常・口蓋裂・羊水過多(胎児の消化器系の障害の可能性)・・・等も見られると。 「それで・・赤ちゃんは生きられるんですか?」 そんな言葉を、口にしなくてはならないなんて・・けれど、聞かなくては。 私の大切な赤ちゃんの、一番大切なことだもの・・ 「恐らく赤ちゃんはお母さんの体外では生きられないでしょう。セカンドオピニオンとして○○病院への紹介状を書くので、診ていただいては」・・と。 全身の血が凍るような感覚で、看護士さんに支えられながら病室に戻り、泣きながら夫に電話しました。 12時:夫と、新生児・小児病院を併設している県内でも大きな病院へ。 エコーでは変わらず元気に動く赤ちゃんが見えました。しかし・・結果は同じ。「染色体異常、それも出生後に延命措置をするか否かの選択をする、18トリソミーの可能性が高い。このまま妊娠を継続しても40週はもたないでしょう。羊水が多いので、破水が早いかも」・・進む道が次々に断たれるような診断でした。 セカンドオピニオンを受けた医師は、以前大学病院で新生児医療を専門にされていて、「異常の原因・病名を調べないうちに、命をどうするか決めることはできないでしょう」と言いました。 さらに「22週を越えているから、赤ちゃんの状態が深刻であれ、妊娠を継続するしかないのだから、原因を調べる検査をしながら、ゆっくり考えましょう」と。 深刻な状況であることは覚悟していました。「もしかしたら人工的に出産することを進められるかも」とも思っていました。しかし、22週を越えていることで、人工的な出産はできない、選択の余地はないことを初めて知り愕然としました。 “通院しながら、ゆっくり考える”・・・果たして、それが喜ばしいことなのか・・・大きな総合病院の産婦人科です。 私が時折襲われる腹緊に耐えながら、「赤ちゃんが生きられない」と言われている部屋の廊下で、陣痛の波を逃している妊婦さん、1ヶ月検診を待つ大勢の赤ちゃんとお母さん・・・ 回復の期待ができないのに検査を続けてどうなるの?・・できることなら思考を止めてしまいたい・・けれど考えなくては。自分が今できることは、医師の話をしっかり聞いて考えること・・・一番苦しいのは愛しい赤ちゃん。私は母親、置かれた状況にしっかり向き合わなくては。 冷静に考えたくても、情報量が多すぎて混乱する頭では、セカンドオピニオンの医師が促す検査への了解はできませんでした。 返事を急ぐ必要はないということで、ひとまず翌日の午後に再度相談の予約をとり、入院した病院へ戻りました。 17時半:病院に戻り主治医に検査結果を話し、方針を伺いました。 主治医は「妊娠を継続しても回復の期待は持てない。それが解っていてリスクを伴う検査を行う意味は見出せない。赤ちゃんの病気が、この段階で見つかったということを、赤ちゃんからのサインだとご両親が受け止めてあげることが大切だと思います」と。 そして、やはり「22週を越えているので、薬で陣痛を起こすことはできません。だから、自然に破水を待つか、赤ちゃんがお腹の中で命を終えるのを待つか・・」そう言われました。 22週を越えている=“妊娠を継続”するしかない。どんなに私が苦しくても痛くても、赤ちゃんが生きられるなら耐えられます。しかし、出産まで安静にしても、赤ちゃんは生きられない。 そう解っていながら、検査をする?仮に検査をしなくても、赤ちゃんが命を終えるのを待ちながら生活をするなんて・・どんな精神状態になってしまうか・・ 動揺する私に、主治医は「治療的早産という判断で、自然に陣痛を起こす処置があります」と話しました。 「22週を越えている」けれど、陣痛を起こす・・何だか頭は混乱するばかり。 どうしたらいいんだろう・・考える時間をもらうため、決断はせずに、病室へ戻りました。 命の選択の決断はしませんでしたが、この日にウテメリンの点滴を止めました。 “娘の運命を受け入れなくてはならないなら、自然に任せよう”という思いでした。 外出で病院にいる間も、子宮が収縮する痛みと、羊水過多で内側から破裂しそうな痛みとでカチカチだったお腹。医師も私も「点滴を止めれば自然に破水するのでは」と予想していました。 しかし、不思議なことに・・・張らなくなったのです。 娘の病状を受け入れつつあった私。腹緊は、娘が“病気に気付いてほしい”と、必死で送っていたサインだったのかも知れません。その日、本当に久しぶりに痛みがなく、静かに眠れました。 1月26日(22w3d)午後からセカンドオピニオンの医師と面談。 「治療的早産」を促す主治医の方針を伝えました。しかし医師は対極の、「原因を調べる検査をして、“もし”赤ちゃんが生きて出産できたなら、治療をしよう」という方針。しかし、生きて産まれる保証はありません。また「脳の異常などを見た限り、通常の生活は送れない」と言われていました。 医師は「私と主治医の先生の方針があまりに違いすぎるから、ご両親も戸惑うでしょう。それでは気の毒だから、県外の病院にも行ってみては?」と勧めてくれました。 しかし、二つの病院の4人の医師が、娘について異なった診断をすることはなかった、他の病院で診断を受け、検査を続けたところで状態は好転するのか?羊水過多は赤ちゃんが羊水を飲めない消化器の異常がみられる、今、羊水を飲めなくて苦しんでいるかもしれないのに・・・ もし生きて産まれたとしても、産声をあげることもできないまま、人工呼吸器やたくさんの管を刺され、その姿を見守る覚悟ができるだろうか。この子は、そこまでされても“生きたい”と願うだろうか、“そうして欲しい”と願うだろうか・・。そして、手を尽くした後、「延命させるかどうか」を決める時に、また私たちは絶望の淵に立たされる・・ 医師は「何度でもご両親の納得いくまでお話しする時間をとるし、他の病院に行っても良し。どちらの医師の方針に添ったとしても、添わない方の医師に気遣う必要はないですから。それは主治医の先生も同じですよ」と言ってくださいました。 しかし、病院を後にした私たちの心は、娘の運命を受け入れる覚悟を決めていました。 入院した時にはあまり感じなかった胎動が、不思議なことに点滴を止めてからよく感じるようになっていました。妊婦検診を受け、即日入院してから“わずか”4日・・いえ、今までの人生で、こんなに重く長い4日間はありませんでした。赤ちゃんが動くことがつらい。本当なら喜びなのに、「こんなに動いているのに、生きられないなんて・・」ただただ悲しい胎動でした。 1月27日(22w4d):羊水過多のため子宮が膨張する痛みはあるものの、破水するほどのものではありません。胎動は続いており、私の心は大きく波打ちます。しかし、娘の病気のこと、パパとママが決めたこと・・赤ちゃんにできる限り話して聞かせようと務めました。 17時:主治医と面談。親としての務めを果たさないまま、私たちが赤ちゃんの運命を決めてしまっていいのか・・正直な気持ちを打ち明けました。主治医は温かな眼差しで「もう充分務めを果たされているじゃないですか。こんなに考えて悩んでいる、充分赤ちゃんのためになさっているじゃないですか。今、赤ちゃんが自分の病気が深刻だと知らせている、そのサインをきちんと受け止めてあげることが大事だと思います。ご両親が苦しんで考えて出した答えを、赤ちゃんはちゃんと解ってくれますよ」 今後の処置としてラミナリアを挿入することになりました。ではいつから・・という話で「すぐに処置を始めてしまうんだろうか」と不安になる私に、主治医は「今急にでなく、明日は土曜だから外出して、ご家族で過ごされてはどうですか。処置は夕方からにでもしましょうか」・・と、提案してくれました。 明日の夕方には赤ちゃんのお別れへの処置を始める・・外出が楽しい時間になるはずもないけれど、その提案をありがたく受け入れ、病室に戻りました。 医師の言葉によって、患者の損も得もありません。しかし、言葉は時に人を傷つけ、また人の心を救う。 私の赤ちゃんは生きられないと解った日から、医療的な用事はなくても、何人もの助産師さんや看護士さんが病室に来て、体調と心を気遣いながら、話を聞いて・・何人ものスタッフが共に涙してくれました。 悲しい現実に変わりはないけれど、その事実を受け入れる過程で、どれだけ人の温かさに触れたか。 その中でも、主治医の言葉は苦悩する親と大きな運命を背負った赤ちゃんの立場を思いやった言葉であり、これから先もずっと私たちの支えになっていくことでしょう。 1月28日(22w5d):10時~15時まで外出し、親子4人の最後の時間を過ごしました。息子が行きたがっていた公園は、動物がいてランチバイキングもあり、家族連れで賑わっています。 傍から見たら、妊婦の私と夫と息子、幸せそうに見える家族。まさかこれから私が受け入れる運命があるなんて考えもしないでしょう。 けれど、私が見るものは赤ちゃんも見えるような気がして。動物も木々の緑も空の青さも、娘に見てほしい・・景色を必死で目に焼き付けようと、涙で歪む瞳を何度もこすりました。 公園の敷地内に素敵なおもちゃを扱う店があり、指人形を買いました。 産まれる娘が遊べるように、添えてあげたくて。お店の品を見ながら涙が溢れて・・それでも、この時間は娘との大切な思い出、悲しいけれど家族で過ごせた幸せなひと時でした。 18時:出産に向けての処置としてラミナリア太6本を挿入。 突き刺さるような痛みがあり、「もしつらかったら痛み止めで座薬入れるからね」という言葉に、どんな痛みが来るか不安でしたが、少しすると痛みも引いてしまい、夜が明けました。 1月29日(22w6d):ラミナリア太12本挿入。 今度は腰のあたりに鈍痛が着て、少し出血もありました。 いよいよかな・・と思いながらも、陣痛も破水も起きませんでした。 赤ちゃんの胎動は日ごとに強くなってきて、決心が揺らぎそうになります。肉体的には痛みもないけれど、精神的な限界を感じていました。「愛しい赤ちゃんを守るのが母親なのに、私がしていることは・・」心が反対方向に裂かれるようで・・。 けれど、私の不安は赤ちゃんに伝わる・・だから、ひたすら赤ちゃんに話しかけました。病気のこと、パパとママが決めたこと、私のところに来てくれてありがとう、神様に元気にしてもらおうね、ママが抱っこしてあげるからね。そして・・いっぱいいっぱい愛しているよ。涙は尽きることなく流れました。 こんな精神状態でありながら、不思議とこの日は夜8時頃にとても眠くなり、気付くと朝を迎えていました。私に最後の務めを果たすための体力を残そうと、娘がゆっくり休ませてくれたのかも知れません。 1月31日(23w1d):プロスタグランディンE2を投与。この薬は1時間ずつ間隔をあけて、1日6回の投与が限度。もし、これでも陣痛が来なかったら、今度は何をするんだろう?・・不安はピークに達しようとしていました。 分娩室の隣の陣痛室に入り3時間・・陣痛はあるものの降りてくる感覚がない、赤ちゃんが小さくて降りてこられないのです。破水もしないので、お腹は収縮と膨張で意識が遠のくほどの痛みでした。 19:30、分娩台に上がり、破水させる。何十回息んだか・・けれど、赤ちゃんをちゃんと天国に送ってあげるのが私の務め・・その一心で息み続け・・
身体をキレイに拭いてもらって娘の顔を見たとき、愛しくて愛しくて涙が溢れました。 「もう苦しくないね、よかった・・」涙は出ましたが、神様に元気にしてもらえる、と安堵している私もいました。 長い長い出産に立ち会ってくれた助産師さんは「いいお産でしたよ」と、また、主治医は「お疲れさま、よく頑張ったね」と声を掛けてくれました。 私は「お世話になりました。ありがとうございました・・」悲しい出産ですが、助けてくださったスタッフの皆さんには感謝の気持ちでいっぱいでした。 退院までの3日間、毎晩抱かせてもらい、退院前日は添い寝もしました。毛糸の帽子・マフラー・おくるみを編み、子守唄を歌い、病室から星空や明け方の空を眺めました。 本当は娘の状態をもっと調べるべきだったのかも知れません。娘の命の火が尽きるまで、耐える強さがなかった・・そう自身を責める私もいます。 せめて原因を知りたいという気持ちで、胎盤と娘の血液を採取し、染色体検査をしたところ、医師の所見のとおり18トリソミーでした。 愛する我が子との別れは、人生で一番悲しい出来事。 溢れる悲しみと共に、命の選択をした罪の意識は、私が生きている限りずっと持ち続けるでしょう。 けれど、どう思い苦しんでも娘が還ってくるわけではないですし、後ろを振り返るばかりになってしまうので、娘が私に宿ってくれた感謝と、娘のサイン、運命を受け入れたことを第一に考えていこうと思っています。 そして、私自身の経験を踏まえて、同じ経験をされた方の心の痛みに寄り添えたら・・それが、私が神様に“生かされた意味”だと感じています。
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心がひきさかれるような思いでネットを検索し、ここにたどり着きました。
私は1人息子がいて、二回目の妊娠を早期で流産しました。それから何度挑戦してもなかなか妊娠せず、この春ようやく妊娠しました。 私は高齢出産です。45歳を超えています。 今回の妊娠はあきらめていただけに本当に幸せでした。 しかし、今回は羊水検査をすることに決めていました。 この年齢ではとても高い確率で病気が起こるということを考えてのことでした。 それができる週になると病院へ行きましたが、胎盤が前面についているため針を刺して羊水を抜くリスクに加えてさらにリスクが増すため、何度も迷いました。賛否両論があると思います。 でも念のためと思い、検査をしました。 結果は思わぬ結果でした。 娘さんと同じ病気でした。 資料を渡され、男の子は予後がもっと過酷なことを知りました。今ならまだ20週。 この年齢では私の体力も心配と医者が話しました。 妊娠は限界だろうと思って挑戦していただけにもう後はないだろうと思うと心が張り裂けそうです。 毎日泣きながら過ごしています。迷う時間はありません・・私はただ、できるだけ多くのことをしようと思いました。家族で長い間公園を歩いたりしました。 今まで張り気味だったお腹がなぜか楽になりました。 今まで段差も気をつけてきたのに今日滑り台を滑りました。ブランコに乗ったり、公園の遊具も恐る恐るやってみました。 私がやらないと、この子には体験をさせてあげられないからです。泣きながら遊具に乗りました。 公園の夕日、晴れた空、白いお花・・ 声をかけて過ごす日々となりました。 命の大切さ、かけがえのない家族の大切さ・・ それをさらに知ることになりました。 「神さまに直してもらえる」 その言葉は私の救いとなりました。 ありがとうございました。 いおりのママさん
ここにこうしてコメントを頂き mixiでもご連絡を頂き 本当にお辛く苦しい中、ありがとうございました。 これからも沢山お話しましょう。 いおりのママさんは 決して一人ではありません。 今日も、祈っています。 |
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